本 編  「敗北」  「君が望むように」  「でくの坊」

 
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10月31日   敗北


主治医は気の毒そうな表情で言った
もうこれ以上の手術は無理です
前回の手術で腹膜ごと腫瘍を取ったので
腸の穴を縫合するには困難が伴います
腸を圧迫している腫瘍を見つけて除去する事も難しいと思います
何度もの手術で癒着を起こしていますし・・・・

僕は妻を見る

妻はベッドで天井を見つめながら聞いていたが
僕の視線に気づいてゆっくり口を開く
・・・・・・・・・・・・・・・・
もうこれ以上いいわ
・・・・・・・・・・・・・・・・

突然切って落とされた終幕
五年にわたる必死な戦いは
一つの簡単な検査でピリオドを打った

僕たちの負けだ
妻の腸は
もう機能出来ないのだ

今はかろうじて
高カロリーの点滴や輸血で
命を保ってはいるが
二度と食べる事は出来ず
繋がっている沢山のカテーテルから
解放される事もないのだ
二度とベッドから出て
歩き回る事は出来ないのだ

今までの5年に及ぶ挑戦は
ひとえに
希望を持っていたかったからだ
希望があれば
生き続ける勇気につながるからだ

しかし もう終わりだ
生き続ける事は
苦痛のみになってしまった




房子の病気は腹膜偽粘液腫という、10万人に一人という珍しい病気で、現 在治療法はありません。ともかく腹腔内にどんどん増殖してゆくので、外科医によって増えたら切るを繰り返す事になります。出来るだけ切除して、その後を定 期的に洗浄するという方法も、腫瘍のタイプによっては効果があるようですが、根治は出来ないようです。学名はpseudomyxoma peritonei ですので、これを基に海外のサイトMEDLINEやThe Doctor's Doctorでじっくり調べましたが優秀な外科医による徹底的な切除が最善のようです。幸い進行が遅いのでQOLを高めて、人生の良い思い出作りをするよ うにというアドヴァイスが多く見られました。房子には当初から率直に全てを話してありましたが、可能性がありそうなものにはどんどんチャレンジしてみようという点で気持ちは一致していました。
房子は亡くなるまで、9回の入院と6回の手術を受けましたが、腹部は手術跡だらけで本当に可哀相でした。


 

11月5日 

房子の所へ行くと、洗濯物が沢山仮洗いしてビニール袋に入れてある。
これも洗濯してくるね、と言って取り上げると、
看護婦さんが失敗しちゃって、看護婦さんも大変だけど、私も失敗されると辛いのよ。
と顔を曇らせる。


 

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11月7日    君が望むように

震える手で 病者の秘蹟を授けて
老神父は帰っていった
他の患者を見舞いに来たついでだと言うが
有り難い事だ

房子の
一区切り付いた雰囲気を感じ取って
僕は話す

今日は秘蹟も聖体拝領も出来て良かったね

そうね
やる事はやったので
もう早く逝きたいわ
こんな身体なんだからいいでしょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・うん・・・・
いつも
房子が望むようになりますようにって祈っているよ

房子の目に涙があふれる

ずーっと一緒に居たいけど・・・・・ね
君が居なくなったら
僕は何もやる気がしなくなるんじゃないだろうか

また絵を描けば?

身近で喜んでくれる人が居ないと
描く気がしないよ

後は言葉にならず
ただ手を握りしめる



11月8日

房子は元気がない。下腹部が圧迫されていて痛いようだ。 手術前とは異なる痛み、多分、チューブが入っているせいではないだろうか。胸が張って呼吸するのも辛い。肺活量は半分くらいに下がっている。
シャワーを浴びたくない?と聞くと、今はそんな気力はないとの事。
足の裏のマッサージをしてあげると、うんいい気持ちいい気持ち、と言う。
会議があるので、早めに病室を出る。明日は早く来るからねと握手する。



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11月28日  でくの坊

二人で話しているのに
僕は時々寂しくなる

少しは楽しげな話をしている最中であっても
房子はいつしか黙り込んでしまい
その視線はどこか遠くを見つめている
その視野の中には僕はいない
そして 今のこの場所には
容易に戻ろうとしない

房子はどこか遠くをさまよっているのだ

一人でじっと死の恐怖と戦っているのだろうか
腹の中で増殖を続ける腫瘍の動きを感じて怯えているのだろうか
それとも
もう心は彼岸にあるのだろうか

そんなとき僕は
彼女を呼び戻す言葉を
発する事が出来ない

結婚以来
あんなに全てを分かち合ってきたのに
今の僕は
ただ傍らで立ちつくすだけの
でくの坊にすぎないのだ

神様 何とかして下さい
何故こんな良い人に
こんなむごい仕打ちをするのですか

 

 

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