「富める者」と蟹工船

 一枚の写真がある。大正七年・弥生尋常高等小学校の男子優等生集合写真。着物姿の生徒たちに混じり、ひとり洋服姿の生徒が写っている。物憂げな表情をしたその少年は後に文芸評論家として名を馳せる亀井勝一郎。その頃、亀井は東京の学習院の生徒を思わせるような貴公子然とした服装で学校に通っていた。
 だが、亀井はそのことを決して誇りに思っていたわけではない。亀井にとって裕福であることは優越感ではなく劣等感だった。周囲から注目される自分を、そして富裕であることを心の痛みとして自覚する。やがてその罪の意識は、「富める者」としての自己を否定しようという意志にまで高まってゆく。
 元町・大三坂の途中にあった亀井の家からは、函館港を埋め尽くすばかりの北洋の海へと向かう漁船の姿が見えた。きっとその時代、少年亀井の目には、坂上の公会堂に集ってくる文化の香り漂うような豊かな人々の姿だけではなく、坂を下った港近くの岸壁にたむろする「貧しき者」たちの姿も、しっかりと焼き付いていたはずだ。その頃、街では労働争議が起き始め、遠いオホーツクの海では操業船の劣悪な労働環境や乗組員への虐待などが問題になりつつあった。
 昭和三年、東京帝国大学に進学した亀井は「貧しき者」のための非合法運動にかかわり逮捕投獄される。その同じ年、作家小林多喜二は函館から出航した北洋カニ操業船における「生き地獄」の実態を丹念に調べ上げ、小説「蟹工船」の執筆に取りかかる。
 最近、その小説が再び脚光を浴び、それも多くの若者に読まれているという。過密な長時間労働を強いられ心身を壊す正社員の過酷な勤務実態やフリーターや派遣労働者の「使い捨て」的な不安定な労働環境、そして貧富の格差、「勝ち組」と「負け組」、ワーキングプワーなどと語られる現代の貧困問題が、小説「蟹工船」が描く世界と二重写しになって読まれているのだ。
 あの時代、生まれながらに「勝ち組」だった亀井はそんな自分を否定し、弱い者の側、「負け組」の側に身を置こうとした。それが善であり、正義だと信じたからだ。だが、その道が一筋縄ではゆかないいばらと挫折の道だったことは承知のとおりだ。そんな亀井の甘さを批判する者もいる。しかし、だからといって、青年亀井が追い求めた「平等」や「人権」の精神は、いかなる時代であっても決してないがしろにされてよいものではない。

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