昭和からの問いかけ
わたしが子どもだった昭和三十年代始めには、戦争の名残りのようなものがまだ身近にあったと思う。
髪の毛や目の色がわたしたちと異なり、「合いの子」と陰で呼ばれていた近所の遊び友だち。神社のお祭りの夜、境内の片隅でアコーディオン演奏していた松葉杖の白装束姿。ラジオの娯楽番組の合間に流れる「尋ね人の時間」や「シベリア帰り」の人々のニュース。そんな場面に出遭うと、それまでにこやかに笑っていた大人たちは、きまって神妙な顔つきに変わった。きっとその時、大人たちは忘れかけていた戦争の記憶のふたを突然開けられた気持になったのかもしれない。
最近、昭和を描いた「ALWAYS続・三丁目の夕日」と「母べえ」という二本の映画を見た。前者は前作に引き続き、日本が高度成長に向かう東京オリンピック前の「夢のある元気な時代」を描いた作品だ。だが、一見ほのぼのとしたこの映画の背景には戦争の影がある。整備工場の主人が夢の中で戦友と酒を酌み交わす。「生き残った人たちはね、戦死した人間の分まで幸せにならなくちゃいけませんよね」戦友のその言葉がこの作品の根底にずっと響く。
「母べえ」は同じ昭和でも戦前を描いた作品である。太平洋戦争突入が迫った頃、反戦思想を持っているということだけで、一家の父親が拘束される。治安維持法という「行為」だけではなく「思想」を裁く悪法があった時代だ。働き手を失った家族は助け合いながら、戦時下の困難な時代を生き抜く。この映画は「ふつう」の人々がいかに戦争に浮かれ、権力に迎合してゆくのかをも同時に描いている。あの戦争は一部の為政者や軍人だけで推進されたのではなく、国民も又それを支えていたことも暗示する。被害者が加害者にもなるのが戦争なのだ。
昭和という時代は戦前と戦後とが「八月一五日」をはさんで断絶してあるのではない。ある意味で戦前の姿が戦後の日本の形をつくった。つまり、「母べえ」の時代を体験した大人たちは、戦前の時代を教訓にして民主主義と自由と平和主義を理想とした憲法をつくり、その実現のための土台である「中流」の暮らしを目指してきた。「中流」とは国民みんながそこそこに豊かに暮らせる世の中であり、それがまさしく「三丁目の夕日」の世界であった。
だが、果たしてわたしたちは今、あの戦友の言葉に応えているか?
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