街の灯り
クリスマスが近づいたある夜、元町から歩いて二十間坂を下りた。坂の両脇の木々や店はイルミネーションで飾られ、教会などの建物はライトアップで照らされている。港に近づくと観光客に囲まれた大きなツリーが光り輝き、ふだんは暗さばかりが目立つこの界隈もまばゆい光に満ちあふれていた。後ろを振り返り、函館山の山頂を見上げると、夜景を楽しむ観光客のカメラの閃光が絶え間なく放たれている。
以前、函館山から見る夜景の姿が変化しているという記事を読んだ。街の中心が西から東へと移ってゆくにつれて、山のふもとを中心に輝いていた灯りが、年々外へ外へと拡散(拡大ではない)しているという。街が面から線へ、そして点線が点となって郊外へ広がってゆき、夜景も大粒のダイヤモンドのようだったのが、小粒のダイヤを散りばめたような形になってきている。
「…この街に住んでいる人々は、その夜景の無数の光のひとつでしかない。光がひとつ消えることや、ひとつ増えることは、ここを訪れる人にとって、どうでもいいことに違いない」 (佐藤泰志『海炭市叙景』)
かつてこの街の夜景を形作っていたのは一軒一軒の生活の灯りだった。建物を照らし出すライトアップや家の前に飾られたイルミネーションは、その中で暮らしている人々の生活や内面を映し出しはしない。だが、その輝きに生活の臭いがないからこそ、一瞬であれ、現実や日常を忘れられる(ファンタジー)という見方も出来る。灯りに生活感とか意味を求めてしまうのは、ある世代までの郷愁なのかもしれない。
その「ある世代」に属するわたしの幼い頃の思い出。雪が降りしきる夜、丸井デパート向かいの銭湯からの帰り道、母が羽織った角巻の中に湯冷めせぬようスッポリ包まれたわたしは、人通りの途絶えた暗い雪道を歩いてゆく。角巻のすき間から見えた街灯の傘付き電球の灯りは、薄暗くてちょっぴり頼りなかった。
突然、キーンという金属音と共に、雪の中から車輪を軋ませた一つ目ライトの電車が姿を現す。電車は大きくカーブを切ると十字街方向へ去ってゆく。やがて、線路の向こうに自分の家の部屋の灯りがポツンと見えた。わたしは角巻から飛び出し、白い息を吐きながら灯りに向かって走り出した。
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