黄昏の橋

 高橋和巳の未完の小説となった「黄昏の橋」を再読した。前に読んだのは、学生時代の頃であったから、もう三十年近く前になる。学生運動全盛期であったあの頃、高橋の小説は学生の間でバイブルのようにしてもてはやされた。
 この小説の中で、機動隊と衝突した学生が、橋の上から落下し死亡する場面が描かれている。これは一九六七年に起きた「十・八羽田闘争」をモチーフにしている。その時、機動隊との衝突で京大生の山崎博昭が死んだ。ある意味でこの事件が、その後に全国的に拡大してゆく学生運動や大学闘争の発端だった。
 当時、高三だったわたしたちもこの事件に大きな衝撃を受けた。いわゆる「十・八(じゅっぱち)ショック」である。佐藤泰志はこの事件に触発され、小説「市街戦のジャズメン」を書き上げ、北村巌は校内で予定されていた「防衛大学校入学説明会」の阻止に立ち上がった。そして、ノンポリだったわたしでさえ、やがて「殺すな!」と書かれた白いバッチを学生服の胸に付けて登校するようになる。ホームルームではベトナム戦争についての話し合いが行われ、学級の回覧ノートにはベトナム反戦を訴える過激な言葉が書き連ねられていった。
 一人の学生の死が日本中の若者の心を揺り動かしていた。片田舎の高校生にさえ、何かをしなければならないと思わせたあの時代の雰囲気、気分、そしてあの頃の熱気は何だったのだろう。同じ時代に青春を送った歌人道浦母都子は、その時代の思いを次のように歌った。

 明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし
 
 まさしくあの頃は「べしの時代」だった。「傍観すべきではない。大事なのは現実を解釈することではなく、変えることなのだ」わたしたちは叫び、そうあろうとし、高校を飛び出した。
 しかし、七十年代に入ると「べしの時代」は急速に黄昏へと向かい始める。当初、自分自身に向かうべき倫理としてあった「べし」は、やがて絶対的論理となり、その矛先を他者へと向け始める。そして、内ゲバの季節が始まった。高橋はその渦中、「わが解体」という作品と共に自己解体の道を選び、死を迎える。
「黄昏の橋」を読みながら、「橋」を渡れば、その向こう側に何かがあると信じていた若い頃の自分を思い出していた。まさしくわたしも「べしの時代」を生きていたのだ。そして、もうすぐ終末を迎えようとしている二十世紀の黄昏の中で、求めるべき「べし」を見失ったままのわたしは、次世紀へと向かう橋のたもとでいまだ佇んでいる。
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