二十歳の頃

 「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどと誰にも言わせまい」
(ポール・ニザン「アデン・アラビア」)
 内容はほとんど忘れたが、書き出しのこの一節だけは、出版社の犀のマークが付いた表紙と共に今でも覚えている。
 永島慎二のマンガが原作の映画「黄色い涙」を見ていた時、突然この一節を思い出した。映画に出てくる主人公たちは、金はない、女性にはもてない、将来どうなるかわからない、ただ夢だけ持っている、そんな若者たちだ。映画の中で腹を空かしている主人公たちの姿がたびたび登場する。また、昼に近い朝、雑魚寝している四人の足や頭が寝返りするたびにぶつかり合う。そんなシーンで観客はクスクスと笑っていたが、わたしには笑えなかった。それはまさしく、当時のわたしたちの姿だったからだ。
 大学がバリケード封鎖されたその夏、わたしは中央線沿線の国立にあった同郷の友人Tの兄のアパートに転がり込んだ。その六畳一間の一室で、函館出身の四人がグダグダとした日々を過ごした。毎日食べることだけが楽しみだったが、金もなく、サラリーマンだったTの兄が何か買って帰宅するのをいつも腹を空かして待っていた。それがさばの缶詰でもごちそうだった。
 昼近くに目覚めると、部屋の中の温度は三十度にも達し、流しの中の生ゴミがすえた臭いを発していた。いつものように布団の中で惰眠をむさぼっていたある日、隣の部屋からラジオの音が聞こえていた。アポロ十一号の人類初の月面着陸を伝える実況放送だった。寝床でそのニュースを聞いていたわたしは宇宙のはるかかなたと今こうしている自分との莫大なる距離を感じた。なんだか自分が情けなくて涙が出た。
 夏から始まった仲間との「日だまり」のような共同生活は冬を越した翌年、終わりを告げる。新しい何かが見つかったわけではなかった。ただ、高校を卒業し、海を渡って上京してきた時に漠然と抱いていた夢のことはもう誰も語らなくなっていた。四人それぞれが自分の居場所を求めて別れた。 あの時、わたしたちが一番世話になったTの兄は函館で新しい仕事を始めようとしていたその矢先に発病し、三十代の若さで死んだ。そのこともあり、二十歳の頃の思い出はわたしにとってはいつもほろ苦いものとしてある。 


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