春の体育館

冬を越えた柔らかな日差しが体育館に差し込んでいる。三月末、わたしは全校児童の前に立っていた。三年前に青柳小学校に赴任し、同じようにそのステージ前に立った時、この体育館のレトロな雰囲気に、ある種の懐かしさを覚えた。老朽化したコンクリートの壁面。かつて二千名もいた児童が一斉に外へ出ることが出来たグランドに面した両面開きの五カ所ある出入り口。大人でも一人で開けるのに苦労する重く大きな入口の大扉。そして、視線を上げたその向こう側には、段違いに四つ並んだ小さな窓が付いた小部屋が見える。
 今はもう使われていない映写室に初めて入った時、そこはさながら映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の世界のように思えた。映写室の小さな窓から放たれた一筋の光が暗闇の中を走る。三五ミリ映写機のレンズの光は、体育館内に舞い上がり漂う塵を照らし出す。光の中で演じられる「埃のダンス」に会場を埋め尽くした子どもたちは一瞬どよめく。やがてステージ上のスクリーンに「3,2,1」という数字が映し出されると、子どもたちは映画が始まる期待感でその数字を大声で唱和し始める。
 映画会がある時は体育館の窓に防火用鉄製シャッターが下ろされた。それは昭和九年の大火後に改築された現校舎の特長的設備で、「大火の街」函館ならではの自慢の最新設備だった。 昭和十九年五月。全校児童を前に文部省推薦の映画「轟沈」(ごうちん)が上映される。インド洋における潜水艦作戦の記録映画で「国民精神の涵養を目的とする」戦意高揚映画のひとつであった。味方の潜水艦が敵艦を沈めるそのクライマックスシーンでは、それまで息を詰め画面に釘付けになっていた子どもたちは一斉に歓声を上げ、大きな拍手を送った。おそらくその場にいた誰一人として、まさかその翌年の夏、この戦争が敗戦で終わることになるとは夢にも思わなかったにちがいない。事実というのはそれ自体は平凡なものだ。そして、そのことがどういう意味を持っていたのか、その時はほとんど気づかれてはいない。
 当時の学校日誌には、体育館での映画会は昭和二十一年の「路傍の石」の上映を最後にその後記されていない。戦後すぐに市内の映画館が再開され、以後の映画鑑賞はそこで行われたからだ。
 そんな歴史に思いを馳せながら、わたしはこの春、この体育館に別れを告げた。

  エッセイ集へ戻る