戦争の足音
 
 物心ついた頃から事あるごとに年長者から「戦争はもうこりごりだ」という戦争中の苦労話を聞かされてきた。ある時期、被害者意識丸出しのその言い方に反発したこともあったが、戦争がもたらす理不尽さは痛いほど伝わってきた。わたしにとって「戦争反対」はあたりまえのことだった。
 だが先日、次のような気になる記事を目にした。再チャレンジの見込みもない、構造化した格差社会から抜け出せない若者の中には、水面の上に顔出すチャンスとして戦争を求める者がいるというのだ。希望はもう戦争しかないと。
 近頃、わたしの周囲を見回すと、戦争を語っている人のほとんどが戦後生まれだということに気づいた。そのことは、昭和の戦争の実態を正確に伝えてゆくことがますます困難になってきているということだ。それでもわたしは、年長者から聞いたことや資料を基に想像力を駆使し、昭和の戦争のことを伝えようと試みる。だが、戦争の悲惨さとか平和の大切さが、若い世代にうまく伝わってゆかないもどかしさをいつも感じている。
 平和を築き上げるためには果てしない継続した努力が必要だが、戦争は一瞬にして始まる。戦争はそれまでの平和への願いや努力をせせら笑うかのように、あれよあれよという間に始まる。平和は見えにくいが、戦争はわかりやすい。だから、始まりやすい。
 今の時代を生きるわたしたちにとって平和は日常であり、目立たなくて平凡で、時には退屈に思えるかもしれない。一方、戦争は非日常であり、一見派手で刺激的に見える。人は見えにくいものを保ち続けることには飽きやすく、わかりやすいものにはすぐ飛びつく。だが、あの昭和の戦争の時、人々にとっては戦争が日常そのものだった。どんなに悲惨で極限的な状況も、いつの間にかそれはあたりまえの日常になってゆくのだ。
 よく「再び戦争の足音が聞こえる」という言葉を聞く。もちろん、戦後生まれのわたしにはそれがどんな音なのかはよくわからない。だが、戦争の足音というのは、その音がみんなの耳にはっきり聞こえた時には、もう後戻り出来ない状況になっているということだけはなんとなくわかる。
 平和というのは期限がない、地道な努力の積み重ねだ。戦争と違って平和は冴えないし、派手さもない、見栄えもしない。だが、その大切さは、空気のようにそれが無くなってはじめてわかる。


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