旧市街地を旅する

 時々路面電車に乗り、旧市街地までのつかの間の小旅行を楽しむ。西部地区に向かって電停を過ぎてゆくたび、少しずつ時をさかのぼってゆくような気分になる。それは少年時代の自分に戻ってゆく旅でもあり、その時電車はタイムマシンになっている。
 西高の前に立ち、八幡坂を行き来する観光客の姿に目をやる。観光客は街並みをゆっくり眺めることもなく、テレビや雑誌で見た同じ場所を探して写真を撮ると、そそくさと立ち去ってゆく。風景は観光客の目にも心の中にも留まる間もなく、デジカメのメモリーの中へ蓄積される。街の景色は記憶されずに、ただ記録されてゆく。
 初秋に行われたバル街の夜、わたしたちは千鳥足で旧市街地を歩いていた。十字街から二十軒坂を上り、さらにチャチャ上りまで一気に駆け上る。次に日和坂を下り、旧桟橋に向かう。やがて夕闇が迫る頃、あちらこちらの路地から続々と人があふれ出してくる。銀座通りに向かい歩いてゆくと、かつて銀行通りと呼ばれた末広町の電車線路沿いの街灯が暗闇の中に淡い光を放っている。辻仁成が「戒厳令下の東欧の街のようだ」と表現した光景がそこにあった。突然「キィーン」という金属音と共に、一つ目ライトの電車が車体を軋ませ、目の前を通り過ぎてゆく。アルコールの勢いが増してきたわたしたちは、さらに南部坂を上がり、青柳町界隈を過ぎ、最後の店を目ざして函館公園へと向かった。
 後日北村巌から、わたしたちが歩いたその道を、百年前のちょうど同じ日、石川啄木が歩いていたのだと聞かされた。明治四〇年九月十二日。前日に弥生小学校に辞表を出した啄木は、橘智恵子に別れを告げるため、歌集「あこがれ」を手に函館八幡宮の近くを歩いていたのだ。
 そんな百年前の偶然に驚きながら、その時代に思いを馳せる。かつてこの旧市街地には未来を夢見る多くの若者が集った。基坂の十字路に立ち「今わが立つは、海を見る広き巷(ちまた)の四(よつ)の辻」と歌った啄木。「世界中の宗教が集まった場所」に生まれ育った亀井勝一郎。海峡を見下ろす坂道を激論を交わしながら闊歩していたコスモポリタン長谷川海太郎やその兄弟たち、久生十蘭、水谷準。そしてジャック白井、唐牛健太郎、佐藤泰志…。そんな若者たちを育んだこの旧市街地だが、写真で切り取るだけでは見えてこない多くの魅力がまだまだ潜んでいる。

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