路上にて
今回十号に達した同人誌「路上」だが、表紙はすべてひとりの同人の手によるものだ。その表紙には毎号タイトルの下に挿絵が入っている。自転車、下駄、リヤカー、コマ、イガ栗の殻、タンポポ、雪の結晶、毛糸のぼっこ手袋、そして木製の古ぼけた電信柱や「となりのトトロ」がポツンと立っているのもある。いずれもどこの街角でも見かけることが出来るものだが、ある種の懐かしさを感じさせるものでもある。それは、それらが今では次第に失われ、忘れられつつある光景だからだ。
それらが日常的に道ばたにあったのは、道路がまだ土のデコボコ道だった頃だ。石ころやビー玉、片方だけの下駄や長靴、そして馬糞、そんなものがどこにも転がっていた。車が通るたびに土埃が舞い上がり、風が吹けば馬糞が飛び散り、雨が降るとすぐ泥んこになり「すっぱね」を上げないように恐る恐る歩くような、そんな道路ばかりだった。
だが今、アスファルトで敷き詰められ舗装された道ばかり歩いていると、そのことの快適さを知りつつ、時としてあの土の臭いがする穴ぼこだらけの道路がなんとも懐かしく思うことがある。学校からの帰り道、ちょっぴり道草した小路や路地、秘密の抜け道。そのどれもが子どものころの懐かしい思い出へと結びついてゆく。
ミヘルスという歴史家は郷土愛について述べている。
「祖国とは私たちが子どもの頃に夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほとりのことであり、……野原を通っていた小路、その小路を歩いた思い出、童謡のメロディ、子どもの頃のあの夕暮れのざわめき……それらが祖国である」
(「パトリオティズム」)
人間にとって祖国とは国家ではなくて、こうした故郷のなつかしい記憶や思い出の中にあるのだとする。つまり郷土愛はそのまま国家への愛情とか一体感と直接結びつくものではないということだ。
だが、地方が中央への依存度を高めながらその独自性を失い、故郷の自然も次第に平坦な道と人工的な街並みに平準化されつつある今、このような環境で育つ子どもたちの郷土愛は容易に国家と結びつきかねない。
年がら年中、イカを干したような臭いが街中に漂い、山背が吹くたびいつも土埃が舞っていたようなわが街。そんなこの街へのわたしの郷土愛は、「美しい国」などという言葉で一括りされるようなものではない。
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