校舎が語るあの夏の記憶
ある種のなつかしさを呼び起こしてくれるレトロ風の青柳小学校の校舎だが、一時悲しくつらい時代があった。
現校舎は一九三四年(昭和九年)の函館大火で前の校舎が焼失した翌年に改築された。「大火の街・函館」ならではの耐火構造三階建ての近代的建物だった。校舎の完成を伝える学校通信を読むと、屋上付きの鉄筋校舎、最新設備が整った理科室や調理室などの特別教室、虚弱児対策のための「太陽燈室」、そして映写室を完備したステージ付き体育館などの施設のことを、子どもたちは誇らしげに作文に書いている。
だが、ほどなく公明が青柳国民学校と改称され、この校舎も戦争一色に染められてゆく。そして終戦の年の五月、空襲の標的となることを避けるため校舎全体に迷彩工事が施される。自慢のクリーム色の校舎がコールタールでまだら模様に黒く塗りつぶされてゆく姿を、子どもとたちはそんな思いで見つめていたのだろうか。
その後、戦争の色はいっそうその濃さを増してゆく。七月一四日の函館空襲で、奉安殿側非常口壁と屋上とが被弾する。ただちに学童集団疎開が決定され、七月二十五日、児童およそ七十名が校舎を離れ、知内村・湯の里へと出発する。その中に「礼門」という胸章を付けたカール・レイモンさんの娘さんの姿もあった。疎開先では食糧難、燃料難、医療設備の皆無状況、さらに親元の離れたことの寂しさで、子どもたちはひもじく不安な日々を送ることになる。
八月十五日、その日の学校日誌には「校長懇談会中止」としか記述されていない。そのことが逆に、当事者の混乱と混迷とを表している。十九日、湯の里から集団疎開児童が戻ってくる。函館駅前で子どもたちと再会した親たちは、一様にやせこけ、目だけがぎらぎらし、蚊に刺され手足をぱんぱんに腫らした子どもたちの姿に驚き、みな涙を流した。
戦争は終わったが食糧難は解消しなかった。それどころか配給が停止し、いっそう悪化してゆく。子どもたちは食用の野草採集のため、立ち入り禁止が解けた函館山に連日足を踏み入れる。学校のすぐ後ろにある函館山に自由に登れることがうれしかった。兵舎や壕はめちゃくちゃに破壊されていたが、山頂からみた函館の街並みや青い海にみな歓声を上げる。眼下にポツンと青柳小学校の黒い校舎も見えた。子どもたちは相変わらず空腹だったが、戦争が終わってよかったと、その時しみじみ思った。
エッセイ集へ戻る