いつか読書する日

 部屋の壁一面を占拠する大量の本。床が落ちたら、地震が起きたらと家人からはきわめて評判が悪い。わたしも又、自分の死後、この本の始末をどうするかとふと思うこともある。以前、子どもに「いつでもくれてやるぞ」と言ってはみたが、けんもほろろに拒否された。売っても二束三文にしかならないことも重々承知で、特別な思い入れがある本も、他人にとっては大した価値にもならないというのが本のやっかいなところだ。
 東京にいた頃、生活費の半分以上を購入費に充て、ひたすら本を買い続けた。バイトの休みの日、いつも神田の古本屋街を巡っては、いつ読むかわからないような本を次々と買い集めた。あの頃きっと、その日の「パン」よりも大事なものがわたしにはあったのだ。
 大江健三郎は「晩年の読書のために」というエッセイの中で、膨大な量の本を整理した時のことを書いている。
「いま見通しのよくなった棚の間に立って思うのは、若い時に本能のようなものが働いて、ジャストミートする時期のために買っておいた本は、ほとんどすべて有効に読んだようだ」
 この言葉にわたしは我が意を得たりと拍手する。とは言いながら、買った本に対するわたしの愛情はうすっぺらだ。東京から実家の物置に運び込んだ大量の本は、三十年間もほったらかしの末、実家の引っ越しの際にほとんど捨ててしまった。また、蔵書していることを忘れ、何度も買ってしまった本や売り払った後に再度買い直すはめになった本も数多くある。
 処分した本を見ると、それはその時々の流行の本であったり、何かに役立たせるために買った本が多い。そう考えると、時代の最先端にある本とか「役立つ」本というのは、一時そこを通過するだけで、やがて消えゆくものなのだ。その結果、書棚に今残っているのは、時代の変化に左右されないような本、すぐには役に立ちそうもないような本、そしていつか読まれるのを待っている未読の本が主体になる。だから、なおさら高くは売れない。
 田中裕子主演の映画「いつか読書する日」のラストシーン。再びひとりぼっちになった主人公は、自分の部屋に戻り、長い間かかって買い揃えた本が並ぶ書棚の前に立つ。これから、ひとりで読書をする日々が始まることを暗示して映画は終わる。そのシーンを見ながら、わたしが暗闇の中でひとりニンマリとしていたことは言うまでもない。

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