それがどうした?

 太宰治に「トカトントン」という小説がある。主人公は、終戦の日、自決するという軍人の悲壮な決意を聞き、気持ちが高ぶる。だが、その時どこからか「トカトントン」という金槌の音が聞こえ、いっぺんにその気持ちが萎える。それからは、政治でも恋愛でも何かに熱中しようとすると、きまってその音が聞こえてきて、一瞬にして熱が冷めてしまう。おそらく太宰にとって、戦後を生きる違和感とはそのようなものだったに違いない。
 太宰とは比べようもないが、わたしも時々「トカトントン」のような音を聞くことがある。だが、わたしの場合は音ではない。「それが、どうした?」という声なのだ。それは何かを書き終えた時に聞こえてくる。文章を書き終えてホッとしていたわたしは、その声を聞いた途端、冷水を浴びせられたような気分になり、今書いた文章がなんだか色あせて見え、意味のないもののように思えてくる。
 その声はいったい誰の声なのか。この「立待岬」の場合で言えば、それはこの欄に目を留めることもない、そしてさらにその裾野にごまんといるであろう新聞を読むこともない人たちの声なのだ。
 だが、わたしはその声を否定的にとらえているわけではない。「独りよがりになるな」という戒めの声だと思っているし、書くことの意味や目的を再認識させてくれるからだ。モノを書いたり、発言したりする者は、自分の主張の向こう側にある「それが、どうした」というその声を忘れてはならないと思う。
 評論家の吉本隆明は「読書について」というエッセイの中で、人生に影響を与えた一冊にファーブル昆虫記を挙げている。
「実用的ならざるもの、役に立たざるものは価値なしというような窮乏した職人的家系のなかにいたわたしには、人間が昆虫の観察のために一生を費やしうるのだということを『昆虫記』を通じて知った」
 吉本は、路ばたにうずくまり「ふんころがし」の生態を一生かかって観察し続けたファーブルの姿に感動し、そこに人間のひとつの生き方を見た。
 そんなファーブルの生き方も、人から見れば「それが、どうした?」なのかもしれない。だが、そこには、そうした問いかけさえ意味をなさないような、そこにあるだけでひとつの光を放ち続けるような、そんな何かがあるような気がする。

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