中央フリーウェイ

 フロントガラス越しに汗ばむような明るい日差しが差し込んでいた。荷台いっぱいに荷物を積み込んだトラックは、混雑する甲州街道を八王子に向けて走っていた。頭上を見上げると、並行して走る中央高速道の上を、排気ガスに包まれ渋滞に巻き込まれているわたしたちを尻目に、車がビュンビュンと遠ざかってゆくのが見えた。
 東京最後の年の春、水道橋にある本屋でアルバイトしていたわたしは、東京郊外の丘陵にある私立大学の新入生向けの教科書販売に同行していた。校舎に着くと、すぐに臨時の販売所を作る作業を始めた。外から入られないよう教室の机・椅子を何段にも積み重ねて針金で固定し、校舎の一角を仕切った。後で、その時の手際良さを店主からほめられたが、「大学でバリケード作ったことがありましたから」などとはとても言えなかった。準備を終え、店を開けるとちょっぴり不安げな表情の新入生が並んでいた。六年前の自分の姿がそこにあった。
 帰り道、東京に向けて夕暮れの甲州街道を走った。心地よい疲れでウトウトし始めた時、カーラジオから初めて聞く歌が流れていた。
「中央フリーウェイ 調布基地を追い越し 山にむかって行けば 黄昏が フロント・グラスを染めて広がる」
 荒井由実の「中央フリーウェイ」という曲だった。
それまで自分が聞いていた、後に「四畳半フォーク」と命名されることになる歌の類とはまるっきり異なる世界がそこにはあった。ポップで軽快なメロディと屈託のない歌詞。わたしはなんとも言いようのない思いにとらわれていた。
 その歌は、わたしが当時持っていた「こだわり」とか「わだかまり」といったようなものを一笑し、「もっと軽く生きようよ」とでも言っているように聞こえた。政治や人生を語るよりも、今ある豊かさや心地よさが大事なんだよと。今思えば、フォークがニューミュージックへと変わりつつある頃だった。わたしは時代が変わってゆく空気というものをヒシヒシと感じていた。
 あれからもう三十年。今でもこの曲が流れてくると、トラックの中から見た中央高速道の風景を思い出す。そして、最近ではほとんどカラオケに行くことはないわたしだが、いまだかつてユーミンが作った「いちご白書はもう一度」という曲だけは歌えない(歌わない)でいる。それこそ、わたしの単なる「こだわり」にしかすぎないのだが。
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