伝えなければならないことがある

秋の初め、同人の仲間と一緒に室蘭に旅行した。その際、地元の教職員のグループと交流する機会があり、わたしたちは「流れる雲にー室蘭捕虜収容所長の生と死」という紙芝居を見せてもらった。それは外国人捕虜への虐待を許容した罪で戦後にB級戦犯となり死刑となった平手嘉一大尉に関する話であった。
戦争中の室蘭での実話を題材にしたその紙芝居を見ている間、わたしは二つのことに衝撃を受けていた。ひとつは戦争は加害者であると同時に被害者でもある人間を否応なしに生み出すものだということを改めて思い知らされたことであり、もう一つはこの話の舞台となった室蘭俘虜収容所の本所が函館にあったことを函館に住んでいながら知らなかったことにである。
 函館に戻り、早速函館俘虜収容所について調べてみた。確かに収容所は昭和二十年六月に閉鎖されるまで、西部地区の台町(現船見町)にあった函館検疫所の構内に存在していた。南方戦線で捕虜になった米英などの千人以上もの兵士が、室蘭の場合と同様に港での荷役や鉱山での掘削などの強制労働に従事させられ、その中で病死者も出ていたことがわかった。
 先日、その跡地を訪れてみた。「函館検疫所台町措置場」という古ぼけた標識が立っているその一角では盛んにブルドーザーが行き来し、整地作業が行われていた。今、その函館検疫所跡地は市が整備中で、観光の一拠点としての活用が期待されているという記事が新聞に出ていた。
 周辺をグルッと廻ってみたが、そこに俘虜収容所があった痕跡はまったく見あたらない。そこからは、眼下に広がる海のはるか彼方の故郷に思いを馳せながら、港に向かって魚見坂を行進してゆく外国人捕虜たちがそこにいたことなど想像すら出来なかった。
 函館港を望む高台にあるその跡地はやがて西部地区の観光スポットになり、多くの観光客で賑わう場所になるのかもしれない。それはそれでいい。だが、その一方で、かつてその場所に俘虜収容所があったことなど人の記憶から忘れ去られてゆくようにも思う。
 今年は戦後六十年だった。これからは戦争を体験した者が少なくなってゆく一方だ。たとえ時代が変わってゆこうが、伝えなければないことがある。ずっと記憶し、伝え続けなければならないことというのはあるのだ。
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