裸の十九歳
今年は暑い夏だったが、三年前の夏も今年のように暑い日が続いた。その年一九九七年八月、死刑囚永山則夫の死刑が執行された。
一九六八年に起きた四人連続ピストル射殺事件の犯人永山則夫は、八七年に死刑判決を受け、九〇年に死刑が確定した。しかしその後、永山の悲惨な生い立ちや環境が周囲に情状を呼び起こしたことや、獄中で書かれた「無知の涙」「木橋」などの作品が文学的に広く世に認められてゆくなかで、当分死刑執行はないだろうというのが一般的な見方だった。
だから、三年前の夏の死刑執行はあまりにも唐突な感じを与えた。確かに死刑執行は事前に知らされるものではなく、突然訪れるものだ。だから、死刑を宣告されている者は、毎日四六時中、死の恐怖と向き合うことになる。刑が執行された時、少年法改正問題に詳しい識者は「あの神戸の少年事件のせいだ。執行が早まったんだ」とその政治性を指摘した。
永山が原宿の街で逮捕された時、わたしも同じ東京にいた。彼が北海道出身だったということ、同じ十九歳だったということ、そして函館の近くでも殺人を犯していたということで強い関心を抱いた。そして、彼が当時「金の卵」と呼ばれていた集団就職者のひとりであったことを知り、当時学園闘争の渦中にいたわたしは複雑な思いに駆られた。
その後、永山をモデルにした「裸の十九歳」という映画を見た。永山を演じたのは、原田大二郎で、今でこそすっかり中年太りしたオッサンになってしまったが、そのころの彼は細身でかつニヒルな感じだった。その映画の中で彼は、東北の片田舎から上京したナイーブな青年を熱演した。その時の原田の姿が、当時わたしが世話になっていた同郷の友人の兄貴にそっくりだったこともあり、その後、そのイメージがわたしにとっての永山像となっていった。
今年になり、少年による殺人事件が続発している。だが、いまだにどれとしてその殺意の動機や原因がよくわからないままでいる。当初、永山は裁判の中で、殺人の動機は貧困をもたらしているこの社会にあると主張した。殺人を正当化しようとする彼の論理は理解できなかったが、その心情はそれなりにわかるような気がした。日本全体が高度経済成長のレールをひた走っていたその頃も、彼自身はその流れに取り残された北国の農村の貧しさを背負い続けていた。
死刑制度の是非については、正直言ってよくわからない。だが、同じ時代を生きた永山則夫の姿は、三十代の若さで急死した、原田大二郎に似たわたしの友人の兄貴の姿といつもダブりながら、わたしの苦い記憶としてあり続ける。
立待岬エッセイ集に戻る