教養の力

 息子が通っている大学の広報誌に目を通してみた。父母の関心を引こうとするためなのか、紙面は学生の進路情報と就職先でもある企業との提携の記事ばかりで、かつての自主独立的な大学像を期待したわたしは多少がっかりした。
 わたしが学生だったころ、大学と企業・国との間には確固たる一線があった。当時「産学協同路線反対」というスローガンがあったくらいで、企業からの研究資金供与などの事実が発覚すると学内外で大きな問題にさえなったものだ。
 だが大きく時代が変わり、今では、産学官協力体制の強さこそを大学はアピールし、学生も又それを期待する。少子化と就職難の今、大学が生き残る道と学生のニーズとがそこで一致しているからだ。その結果、就職やキャリアに役立つ科目や資格取得の学科がもてはやされ、文学や歴史、哲学といった教養型の学科が次々と姿を消している。つまり、「テクノロジー」「情報」といった即戦力型学科が基礎的な教養学科的なものを駆逐しているのだ。
 教養的な学問が軽視されているそんな現状に対して、文芸評論家の加藤周一は次のように語る。テクノロジーは手段であり、教養は目的に関係する。テクノロジーはものを作り出し経済的繁栄を生み出すことは出来るが、それは手段であって、社会全体がどこへ行くのか、行くべきかを決めることは出来ないと。
 「旅」に例えれば、車や飛行機といった交通手段はテクノロジーであり、旅の目的や行き先は教養の中にこそ求められる。ここで言う「旅」の目的というのは、言うまでもなく人生の目的であり、この社会の進むべき方向のことでもある。
 だが今は、「旅」の手段であるテクノロジーばかりに注目が集まり、遠回りの教養よりも効率とショートカット(近道)の学問が優先される時代だ。しかし、どんなことでも、やがて「旅」の目的や行き先そのものを見つめ直さなければならない時というのが一度はやってくる。まさにその時こそが教養の出番であり、教養の力の真価が問われてくるのだ。
 恥ずかしい話だが、わたしは大学を卒業するまで六年もかかった。でも、決してその年月が無駄であったとは思ってはいない。多くの回り道・寄り道をする中で、多様な教養を学んだからだ。そして、そんな道草の中で得た教養こそがわたしの「旅」には必要だったし、それが今になってすごく役に立っている。
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