函館大火から見えてくること
先日、勤務している小学校の沿革に目を通す機会があった。それを読みながら、改めて函館が大火の街だったことを痛感した。
明治十一年の創立以来の沿革には、校舎が全焼失した昭和九年の大火まで、青柳小学校に関係するものだけで大小七回もの被災の記録が残っている。
函館の大火は全国的に有名だった。なにせ明治以降、大正十年までのおよそ五十年の間だけでも、百戸以上焼失の大火が実に二十五回も記録されている。函館の大火の歴史の中でも、とくに大きな被害をもたらしたのは、市街地の半分以上を焼失した明治四十年の大火と死者二千人を超える大惨事となった昭和九年の大火である。
明治四十年の大火によって、わずか百三十二日で函館を去らざるを得なかった石川啄木は、その大火のことを次のように日記に書いた。
「…大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼失して今や新しき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝杯をあげむとす」
(明治四十丁未歳日誌)
啄木らしい痛烈な表現だが、啄木はその大火の中に、日露戦争を頂点にして次第に求心力を失いつつあった明治という時代の終わりゆく姿と、一方で勃興しつつあった新しい時代の息吹を感じていたのかもしれない。
また、軍靴の足音が強まりつつあった昭和の時代にも、函館の大火のことを記していた人物がいた。リベラリストであり評論家であった清沢洌(きよし)は、戦時下日本の政治や社会の動きを冷静に観察・批判し、それを終戦に至るまで克明に日記に書き続けた。後に「暗黒日記」と名付けられたその日記の中で、清沢は何度か函館大火のことを例に挙げている。
「…日本人が、進んで災害を避ける積極政策を有し得ざる例は函館の火事によって知らる。函館は何回となく大火を繰返す。しかも、これをプレヴェント(防止)する具体策を考究せざるなり。現在の教育による日本人は、断じて時局に関しこれを反省せざるべし。(略)ドイツ人が同じ事を繰返す如く、日本人も必ず今後同じことを繰返さん」
(昭和十八年七月二十五日記)
だが、そんな清沢の警鐘にもかかわらず、日本は戦争の被害を防ぐどころか、その後も戦線を拡大する道を突き進み、やがて日本の歴史上最大の「大火」に見舞われることになる。
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