体験者の退場
今年は戦後六〇年という節目の年だ。だが、今さらもう「戦後」でもないという声が聞こえてくるし、若い世代にとっては戦後六〇年に思いを馳せること自体がおぼつかないことなのかもしれない。
一方、今年は戦前生まれ最後の者たちが六〇歳定年を迎えた年でもあった。学校でもこの春、定年を迎えた教職員が一斉に退職した。あの昭和の戦争の時代に生まれた者たちが去ったことで、学校現場は戦後生まれの教職員だけになってしまった。このことは、戦後教育の出発点である教育基本法を「改正」しようとする動きが現実化している今、とても重要な意味を持っているような気がしてならない。
北海道新聞で「戦後六〇年・戦禍の記憶」という出征した人たちの戦場での体験談が連載されている。いまやほとんどが八〇歳以上となる彼らの口から語られる戦争の実態は、どれも悲惨の一語に尽きる。その中で皆が異口同音に語っているのが、戦争の記憶が風化してゆくことへの不安感であり危機感だ。そのことがこれまで口を閉ざしてきたかもしれない悲惨な体験を、今になって語らせているように思う。まるでそれが生き残った者の最後の務めであるかのように。
一九七〇年生まれの三崎亜記が書いた話題作「となり町戦争」もまた、戦争の記憶の風化が主題になっている。主人公は、自分が住む町ととなり町とが戦争状態に入ったことを知る。だが、その戦争の姿は教科書で習ったような戦争の形でも、テレビで見たモノクロフィルムのニュース映像にあったような戦争の姿でもなかった。日常はふだんとまったく変わらず、どこにも戦争らしき状態は目に入ってこない。だが、確実にどこかで人が死んでいる。やがて主人公は戦争というもののリアリティを感じないまま見えない戦場へとかり出され、そのただ中でふと思う。
「僕たちの世代というのは、戦争というものの実体験もないまま、自己の中に戦争に対する明確な主義主張を確立する必然性もないまま、教わるままに戦争=絶対悪として、思考停止に陥りがちだ」
これからは次々と、戦争を体験した人々が退場してゆく。あの戦争の記憶をどのようにして次の世代へ伝えてゆくのか。それが戦後生まれの私たちに課せられた大きな課題だと思う。
過去は未来のためにこそあるのだから。
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