ノスタルジーも財産になる
      
 休日の午前中、函館公園内の「こどものくに」近辺を散歩した。まだ早いせいかこどもの姿はなく、係の人たちは手持ちぶさたな様子で遊具の前に立っている。動物園の方へ降りてゆくと、オリの中の山羊や鳥たちが一斉に鳴き出した。ここもまた、寂しいくらいに人影はなく、わたしはそそくさとそこを離れた。
 先日、旭川の旭山動物園のニュースが話題になった。かつては廃園さえ検討されていた同園が、一転して大盛況の賑わいになるまでにはスタッフの様々な取り組みや努力があった。スタッフは見せる工夫をこらした施設作りに奔走する一方、客が喜ぶアイデアを持ち場ごとに競い合うなど、それまでの受け身的だった意識の改革にも努めた。それらが今年度入場者数が早くも百万人突破という快挙へとつながった。
 この例は、入場者数の伸び悩みに苦労している函館の博物館や文学館などの展示施設でも通用するように思う。もちろん、文化は「入場者数」だけで評価すべきものではないが、だからといって人が来なければ文化も広まらない。特に函館には全国に誇れるような歴史的価値ある資料や作品、そして街並みといったものが数多く揃っている。だが、歴史的財産の保有を誇るだけでは財産は死蔵し、宝の持ち腐れになる。問題はそれらの歴史的な財産=素材にどのような光を当ててゆくかだ。ただ飾っておくだけではなく、それらに様々な視点や角度から、そしてどのような光を当ててゆくかで、素材というのはいく様にも異なった輝きを放つ。その色とりどりの輝きの変化や思いがけない発見に人は関心を寄せ、足を運ぶ。ひとつの素材にどんな光を当て、どう興味づけして見せるかは、予算確保はもちろんのこと、何よりもスタッフの発想力、企画力、そして意欲にかかってくる。
 そもそも函館の街の魅力は「箱もの」を競ったり、流行を追いかけるというところにはない。この街を訪れる多くの人は、タイムスリップしたようなその古さにこそ価値を求め、そこにある種の郷愁とかロマンを感じようとする。つまり、古いものの中にこそ何か新しい価値を求めているのだ。大切なことは今ある古いものの中にどう付加価値を見い出し、それをどう活かしてゆくのかということだ。
 函館周辺で子ども時代を過ごした者は、あの小さな動物園に家族みんなで行った思い出や初めて回旋塔の飛行機に乗った時の感動を覚えているはずだ。心の中にそんなノスタルジーを呼び起こしてくれるあの場所もまた、きっとこの街の財産のひとつなのだと思う。


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