帰郷

 この春、函館山のふもとにある小学校に転勤になった。それまでは市内に居は構えてはいたが、函館山を遠くに眺めるような郡部にばかり勤務していたので、気持ちはずっと「市外」だった。だから、今になって里帰りしたような気分でいる。友人からは、生まれ育った西部地区だし、近くに図書館も文学館も、おまけに喫茶店もあるし、おまえにぴったりだと言われ、わたしも始めはそう思った。だが、実際は違った。以前だったらよくその近辺を散策し、喫茶店に顔を出し、図書館にも立ち寄ったものだったが、この四月からは足がとんと遠のいた。休日になると、どうも職場のある方向へと足が向かわないのだ。どうやら好きな所というのは、生活する場とは適度の距離があったほうがいいらしい。
 それでも、新しい環境にも慣れてきたわたしは、時々高校生の時まで住んでいた末広町や十字街・銀座という、子どものころ走りまわった界隈をぶらつき、一時昔の思い出に浸ることがある。だが、それらの場所も今ではかつての賑やかさからはほど遠く、わたしが知っていた頃の店や家の多くはその姿を変えてしまっている。でも、その中にポツリポツリと昔の名前のままの店を見つけたりすると、なつかしさで胸がキュンなる。そして、時代の浮き沈みに耐えながら、今もその場所に踏み留まり店の看板を守り続けているその姿を見ると、なんだか頭が下がる思いになる。
 今年の春、わたしの転勤を知った、今は東京にいる高校時代の知人から便りをもらった。その知人の実家は十字街で大きな寿司屋を営んでいたのだが、この春、長年続いてきたその店を閉じた。その文面からは、親から受け継いできた由緒ある店ののれんを守り続けることが出来なかった悔しさと先代に対する申し訳ない思いとがにじみ出ていた。その知人と同じような境遇だったわたしには、そんな知人の気持ちが痛いほどよくわかった。おそらく知人はこれからしばらくの間、店があったその場所には近づかないように思う。わたしの場合はそうだった。かつて自分が住んでいた家や店があったその場所を見ると、なんだか切なくて居たたまれない思いになったものだ。
 そんな愛憎半ばする思い出がいっぱい詰まった西部地区に、わたしは帰ってきた。


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