街の本屋 

街の本屋がまたひとつ消えた。老舗森文化堂の閉店を聞かされた多くの人は自らの「モリブン」体験を思い出しながらその閉店を惜しみ、この街からまたひとつ、文化の拠り所が消えてゆくことを憂えた。
 子どもの頃、わたしの家の周囲には多くの本屋があった。毎週木曜日になると「少年サンデー」を買いに走った近くの一二堂。大人向け雑誌の表紙を横目にドキドキしながら足早に通り過ぎたラッキー書店。初めて「朝日ジャーナル」を買い求めた栄文堂。その英字で書かれた看板が後にベトナム報道写真で有名になった岡村昭彦のデザインだったということや、大学入試参考書を買いに通った棒二デパート横の大正堂のすぐ近くに、四十歳で自死した作家佐藤泰志の家があったということは、すべて後で知ったことだ。そして、繁華街にあった森文化堂。高校時代からずっと、待ち合わせといったらいつも「モリブン」だった。「モリブン」は新しい本を探しながら時間を潰すのに最高の場所だった。街の本屋がまだ元気だったあの時代、どこの本屋にもそんな様々な思い出があった。
 先日、小さな書店を営んでいる知人から本屋の厳しい状況を聞かされた。とりわけ彼が心を痛めていたのは子どもの万引きだった。万引きによる損失は勿論だが、罪の意識もなく悪びれた様子もない子どもたちと接しているうちに、次第に子どもたちとの信頼関係が失われてゆくことがやりきれないのだと彼は嘆いた。本を通して子どもたちの心を育てることや街の文化の一端を担っているという、本屋としての矜持や自負心があればこそ頑張ってもいられるが、そんな気持ちも萎えてきているのだと彼は言った。
 学生時代、わたしも本屋でアルバイトをした。書棚の一角を任せられた時、自分好みの本を前面に集めて並べるのが小さな楽しみだった。その本が売れると、うれしい反面、恋人を誰かに奪われたような寂しさを覚えたものだ。本を並べるクセは今も直らず、立ち寄った書店でも分類が気になると、自然に手が伸びて本を並び替えていたりする。そんなことも本屋に行く楽しみのひとつなのだ。
 しかし、そんな楽しみを与えてくれる街の本屋は年々減るばかりで、その一方でインターネット書店が肥大化している。だが、そこでは本を並び替える楽しみも、未知の本に出逢う喜びも、ましてや人と待ち合わせている時の心のトキメキひとつ感じることも出来ない。


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