最後の写真
 
 春の訪れを告げる三月は別れの季節でもある。その時期が来ると、ある一枚の写真のことを思い出す。
 先日、「はこだて写真図書館」に行った折り、そこに「アサヒカメラ」のバックナンバーがあるのを知った。わたしはすぐにその一九六八年三月号を手に取り、あの写真を探した。それは同誌の全国写真コンクールで一位入選した金丸大作さんの「卒業の日」というタイトルの写真だった。そこに写っているのが、卒業式を終えたばかりの十八歳のわたしたちだった。
 その写真の選評には次のように書かれている。「明るい歌声が聞こえそうな写真だ。早春の残雪の中に、明るい日ざしを浴び、若々しさと楽しさがいっぱいである。めそめそした感傷はかけらもなく、いかにも、現代っ子らしい、カラリとした卒業風景がよく捉えられている・・・」
 確かに、その写真に写っているわたしたちは何が可笑しいのか、みな心の底から笑っているように見える。その時のわたしたちには解放感こそあれ、感傷などまるっきり無かったし、この仲間たちともまた、いつでも会えると思っていた。おそらくその時、そこにいる誰もが「明日の別れ」などは微塵も感じてはいなかったにちがいない。
 その頃、卒業を間近に控えていたわたしたちは、学校の屋上から眼下に拡がる海と、内地へと向かう連絡船を眺めながら、もうすぐ始まるであろう海の向こうでの新しい生活のことを、胸弾ませながらいつも熱っぽく語り合っていた。
 ベトナム戦争の激化と共に、日本国内でもベトナム反戦の波が大きくうねり始め、一九七〇年の日米安保条約の改定を前にした学生運動も高揚していた。その頃、いっぱしの政治少年だったわたしたちの合い言葉は、「七〇年に国会の前で会おう」だった。それは、あこがれと現実との区別さえおぼつかない、戯言のような言葉ではあったが、少なくともわたしは本気でそう思っていた。だが、それからわたしたちは二度と、あの写真に写っているような明るい笑顔をお互いの中に見ることはなかった。 
 そして、幾時代が過ぎ、あれからもう三十五年以上も経ってしまった。昨年、写真に写っている中の一人が病死し、一人はいまだに消息不明のままである。初めてみんなが一堂に介して写ったその写真は、今となっては最後の写真でもあったのだ。

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