無言館

 十一月初旬、長野県の上田市にある無言館という美術館を訪れた。無言館には日中戦争、太平洋戦争で、卒業後あるいは学業半ばで戦地に駆り出され戦死した画学生の遺作や遺品が展示されている。それらは、同じように戦地に送られながらも九死に一生を得た洋画家の野見山暁治と美術収集家の窪島誠一郎とが全国の遺族を訪ね歩き、何年もかけて集めたものだ。
 無言館が出来たことは新聞などで知ってはいた。後に本となった「きけ、わだつみの声」は学徒動員で戦地に向かった若者たちの思いを集めたものだが、同じようにその思いをキャンバスに託した者がいたということに関心を抱いた。そして日本の自衛隊がイラクへ派遣されるかもしれないという状況が、わたしの気持ちを強く無言館へと向かわせた。戦争のことが争点にならない総選挙の最中、わたしは上田へと向かった。
 その日は小春日和の汗ばむほどの暖かい陽気で、陽の光をいっぱいに浴びた塩田平の田園一帯は紅葉が見事に色づき始めていた。バス停から丘の上にある無言館までは、車ではなく自分の足で一歩一歩上る。死者たちの絵と向かい合うには、それがふさわしいような気がした。やがて、十分ほど坂道を上ってゆくと、丘の上にコンクリート打ち放しの白い平屋の建物が見えた。
 表示のない木の扉をおそるおそる開けると、そこは静寂と闇の空間だった。その中で、壁に掛けられた絵の周りだけがスポットライトに照らされ、うすぼんやりと光を放っている。絵に近づいて見ると、絵の具が剥げて変色し、キャンバスの痛みも激しかった。まるでその絵の痛みが、死んだ作者自身の痛みでもあるかのように感じた。
 「出来ることなら行きたくない。生き残って鋳金の作品を作りたい」二十六歳でフィリピンで戦死した小柏太郎は妹の耳元でそっとつぶやいた。二十七歳でルソン島で戦死した日高安典は招集のその日「あと五分、あと十分この絵を描かせておいてくれ」と絵筆を動かすことをやめなかった。若き才能が戦争によって無残にもねじ切られた。絵を描き続けたいという切実な思いが、どの絵からもヒシヒシと伝わってきた。
 無言館の中では死者たちの声が聞こえてくる。静寂の中で死者たちは無言で語りかけてくるのだ。わたしはそこで、自分自身が書くことの意味や明日ではなく今この時を精一杯生きることの大切さを改めて教えられたような気がした。
 外へ出て後ろを振り返ると、建物全体が夕日に照らされ輝いていた。無言館という名は、展示されている絵が無言で何かを語っているからだけでなく、その絵を前にしたわたしたちもまた、そこに無言のまま立ちすくむしかないというところから名付けられた。

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