二列目の人生

 池内紀著「二列目の人生・隠れた異才たち」という本がある。それは実力はありながらも時流に乗るのが苦手だったり、我が道を貫いたりで、その道の第一人者と呼ばれている人物に比べ、華やかな名声からほど遠いところにいた人たちのことを書いた本だ。その本を読みながら、わたしはずっと、函館出身の画家・長谷川隣二郎のことを思っていた。
 今年の夏、函館市文学館で三人のペンネームを操り「丹下左膳」などの人気作品を書き、「文壇のモンスター」と評せられるほどの大流行作家だった長谷川海太郎とその周辺について話す機会があった。その際、海太郎のみならず父の淑夫や兄弟たちなどについても調べてみたのだが、調べているうちに後に有名になった海太郎や四郎よりも、彼らの間に挟まれた二男隣二郎や三男濬のほうにより興味を抱いた。その一人、画家であり「地味井平造」という名で小説も書いていた隣二郎には幾多の面白いエピソードが残っている。
 大正十年の函館大火の際、元町の家が燃え、逃げまどう家族をよそに、隣二郎はスケッチブックを片手に函館山に登り、燃えさかる街並みを写生していた。又、彼の絵の中に「猫」という作品があるが、この猫には左側しか髭が描かれていない。この絵が欲しかった美術収集家の洲之内徹は「髭だけならすぐに描けますね」と催促した。すると隣二郎は「猫がこれと同じ格好で座るのは春と秋しかないのでそれまで待ちましょう」と断り、結局そのうちにその猫は死んでしまった。そのことだけでなく隣二郎の超寡作・遅筆ぶりは有名で、一本の木を描くのにも、描いているうちに葉の色が変わると、それが再び同じ色になるまでもう一年費やしたりした。
 こうした隣二郎にまつわる逸話の中にも、彼の生き方とか矜持がどこか感じられる。若い時には周囲から「海太郎の弟」と呼ばれ、晩年は「あの長谷川四郎のお兄さんなんですね」といつも言われたという。彼は兄弟の中でのそんな「二番手」としての位置とか役割を十分自覚していたように思う。彼は一番を選ばない生き方をしながら、時代に寄り添うのでもなく、だからといって背を向けるのでもなく、黙々とキャンバスに向かい、ひっそりとその時代を生きていた。
 そんな無名だった隣二郎を中央画壇に誘い出したのは「気まぐれ美術館」などの著作もある洲之内徹。じつはその彼自身が「二列目の人生」というその本の中に登場する。洲之内は若い時に小説家を目指し、三度も芥川賞候補になったがそれにとどまり、受賞して華々しく世に出て行く者たちをずっと遠くで眺めていた時代があった。そんな彼だったからこそ、隣二郎の生きる姿勢に、ある種の共感を抱いたのかもしれない。 


  注 隣二郎とありますが、「隣」は正しくはさんずいです。

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