「紙」が好きだった

 「一九七〇年前後に詩を書きはじめた人たちは『紙』が好きだった。『紙』に書かれたもので生きていた。学生運動でビラをつくったり、ミニコミの雑誌をこしらえたりした」
 詩人の荒川洋治の『忘れられる過去』というエッセイ集の中のこの一節に出会った時、我が意を得たりと思った。まさしくあの頃のわたしも「紙」が好きだったし、「紙」に書かれたもので生きていた。もっと具体的に言えば、自分の思いや言葉が紙の上に印刷された文字になり、それが周囲の人たちに読まれてゆくことに生きがいを感じていた。その頃の「紙」に対する思いは、信仰心にも近いほどだった。
 最初に自分の文章を紙に印刷したのは、朝に登校してくる学生にまくためのビラだった。初めての「ガリ切り」は難しくて、何度も原紙は破れ、必死になって刻んだ文字は四角い枠をはみ出し踊っていた。ようやく原紙が出来上がった時、夜はすっかり明けていたが、自分の言葉が文字となって謄写版から印刷されてゆくのがうれしくて、疲れもいっぺんに吹き飛んだ。わたしはインクのにおいがする刷り立てのわら半紙の一枚を手に取り、何度も何度も読み返した。紙の上に載ったその文字のひとつひとつが自分の分身のような気がした。それはある種の快感だった。
 ビラで始まったわたしの紙への執着は、その後は同人誌の発行という形で継続する。東京時代の『黙示』、帰郷して仕事仲間と始めた『星の駅』、そして今年第八号を発行した『路上』。詩や創作、エッセイや評論の形でその時々の思いの丈を小冊子として印刷し、周囲に配って歩いた。そのたびに「何のために、誰のために書くのか」ということを自問自答したりもした。だが、要するにわたしは書くこと、そして紙に書かれた文章を人に読んでもらうことが好きなのだと最近は思っている。
 だが、年齢を重ねてきたことだけでなく、鉄筆がキーボードになり、謄写版が輪転機になったことの変化も大きく、自分の言葉が文字となって紙の上に載ることの感動は今はほとんどなくなった。ビラや同人誌に文章を書きはじめてからおよそ三十年。その年月の間に、わたしは書くことや編集するための技術や経験は少しは身につけてきた。パソコンで自由に原稿を作ることも出来るようにもなった。
 だが、それでもやっぱり、「紙」が好きだったあの頃の情熱とか快感をいまだに忘れられないでいる。それを失ってしまったことを自覚することが、「成熟する」ということなのだとわかってはいても。 

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