子どもの情景 
 
 アーケード街を幼い子どもと白いシャツを着た少年が、ふたり手をつなぎトボトボと歩いてゆく。道行く人たちは、そのふたりを兄弟と思っていたのかもしれない。だが、誰ひとり、ふたりに声を掛ける者も注意を払う者もいない。いや、そもそも通行人は周囲の人たちに関心など持ってはいやしない。皆、自分のことだけで精一杯なのだ。かつては共同体的な温もりの中で子どもたちの成長を見守ってきた隣り三軒の近所や商店街も、高齢化と過疎の中でその機能は急速に失われつつある。結局、そんなふたりをずっと見守っていたのは、人間ではなくて監視カメラの目だけだった。
 七月に起きた長崎での幼児殺害事件。四歳の幼い子どもが殺されたこと、その加害者が十二歳の男子中学生だったことで二重の衝撃を与えた。犯人逮捕の糸口はアーケード街に設置された防犯用監視カメラに映し出された、少年の白いワイシャツと中学校の運動靴だった。通行人すべての行動を見張る監視カメラと学校指定の運動靴。今の時代を映すそんな光景にわたしはうすら寒いものを感じた。 こうした子どもにかかわる事件が起きるたび、少年法改正や子どもの心の問題が問われ、その対策が迫られる。文科省は一昨年、七億円以上もの巨費をかけ全国の小中学校に『心のノート』を配布し、子どもの心をコントロールしようとし、学校ではやおら「心の教育」という言葉が飛び交い、「生徒指導」という名の管理がいっそう強まってゆく。
 だが、そこでは、問題は「心」にあるのではなくて、その「心」を生み出す環境にあるというあたりまえのことが忘れがちになる。つまり、本質的な要因というのは子どもの側にあるのではなく大人(社会)の側にこそあるという現実が見失われがちだ。そして、大人の側もそのことはうすうす感じていながらも、自分たち自身のやり方や生き方を見直すことは避け、問題の矛先を子どもの方にばかり向けようとする。
 今、子どもたちは、この社会のどこにも、自分たちを温かく見守ってくれる大人の視線を感じ取ることが出来ないのかもしれない。子どもたちの目には、大人というのはウソや約束違反、自己保身、権力やカネの力、暴力や戦争を体現する理不尽な存在としてしか映っていないのではないだろうか。
 他者への思いやりとか同情とか慈しむ心とかいうものは、実は今の日本の大人(社会)にこそ一番欠けているものではないのか。そして、競争と自己責任を旗印にした「改革」は、ますます人々からゆとりを奪い、個々をバラバラに分断してゆくように思える。

エッセイ集へ戻る