死者の声を聞く

 イラク戦争が「終わった」。少なくともテレビでは終わった。空母から発進する爆撃機の実況中継、宮殿に向かって進んでゆく戦車を映し出すカメラ、そしてイラク市内の様子を定型化した言葉で興奮気味に伝える従軍記者。画面からは爆弾を受けた側の痛みとか苦しみなど見えてはこなかった。 そこでは米兵一人の死は、イラクの住民百人の死に値しているかのように報道された。人間の価値に軽重はないと言いながら、イラク戦争の中では「死の非対称性」は確実に存在していた。
 先日、話題の映画「戦場のピアニスト」を見てきた。この映画はナチスドイツの迫害を受け、強制収容所生活を強いられた実在のピアニストをモデルにした作品だ。
 映画の中で、実に多くのユダヤ人が無造作に殺されてゆく。やりきれないのは、殺される理由とか動機とかが存在しないまま、無作為に選ばれたり、監視兵の気まぐれでいとも簡単に人が殺されてゆくことだ。死を免れた者も、健康だったからとか能力や技能や知識があったからとかいう理由で生き残ったのではない。それは単なる偶然にしかすぎなかった。
 同じ収容所体験を持つ心理学者のフランクルは著書『夜と霧』の中でそのことについて触れている。
「・・・・・・人間は、文字通りただの番号なのだ。『番号』の『命』はどうでもよかった。番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら」
 ナチスにとって収容所に入れられた人間はただの数字でありモノでしかなかった。だが、本当に恐ろしいのはそのことだけではない。そんな状況下では、収容所にいる人間は自ら理性や良心といった人間性を捨て、ただの動物やモノになろうとする。そうしなければ生きられないからだ。事実、それが出来なかった者は、みな死んだ。
「何千もの幸運な偶然によって・・・・・・とにかく生きて帰った・・・・・・わたしたちはためらわずに言うことができる。最もよき人々は帰ってこなかった、と」
 生き残ったフランクルのこの苦渋に満ちた言葉の中に、戦争が持つ本当の恐ろしさや残酷さがある。
 そして、わが日本だ。これでようやく国際社会に顔向け出来るとした有事法制が、衆議院の九割もの議員による「圧倒的多数」で可決された。この法案に賛成した議員たちに、あの戦争時の戦場や空襲で、殺戮されたり飢えや病いで倒れていった数多くの死者たちの無念の叫びや声が果たして聞こえているか?


エッセイ集へ戻る