ゼイタクは素敵だ!

 毎週土曜日に行われている対イラク戦争反対デモに何度か参加した。列をつくり街中を歩いていると、遠い過去の同じような光景がよみがえってきた。
 1960年代の終わり頃、大学生になったばかりのわたしは、ベトナム戦争反対の「殺すな!」と書かれた白い大きなバッチを胸に付け、東京のど真ん中を歩いていた。わたしは、街中をデモする何千人もの人たちの反戦の叫びが戦争を終わらせる力になると固く信じていた。
 だがやがて、整然とデモ行進するわたしたちの目の前で、機動隊と衝突し、血を流して次々と逮捕されてゆく学生たちの姿を何度も目撃することになる。わたしは手をつないで歩いたり、座り込んだりするだけの自分たちの行動に物足りなさや生ぬるさを感じるようになってゆく。
 それからわたしが、いわゆる過激な学生運動の渦中に入ってゆくまでには大した時間は要しなかった。だが、運動がより過激になってゆけばゆくほど、ベトナム反戦の思いは遠く離れていったように思う。その頃のことを思い出すたび、闘うことや抵抗することの多様性とか持続性ということをいつも考える。
 それは、最近ビデオで見た木下恵介監督の「陸軍」と亀井文夫監督の「戦ふ兵隊」という、戦前の二つの戦争映画からも感じたことだ。この二本の映画は共に戦意を発揚するための陸軍の宣伝映画として作られた。しかし、これらはどう見ても戦意を高揚するような映画には見えなかった。「陸軍」の中では、出征してゆく息子の姿をずっと追いかけて行く母親の姿が延々と映し出され、「闘ふ兵隊」には日本兵の勇ましい姿などはほとんど見られず、逆に疲れ果て放心している姿ばかりが映し出されたりしている。だからこそ、「木下は戦意を沈滞させる映画をつくった」と軍は憤慨し、亀井に至ってはやがて反戦思想の持ち主だとされ、治安維持法違反で逮捕されてしまう。
 この二人のやり方は大見えを切っての反戦活動でも抵抗運動でもない。いわば相手の土俵の中での自らの良心を賭けたギリギリの抵抗であったように思う。だが、そこには、ある種の「したたかさ」と「しなやかさ」とを感じることが出来る。
 そしてそれらは同じ戦時中、町中に貼られた〈ぜいたくは敵だ!〉と書かれた戦意発揚のポスターの「敵」という字の上に「素」の文字を書き足していったという、戦争に苦しんでいた庶民たちのユーモアある行動にも通じてゆく。
 まさしくそのような闘いや抵抗の多様なあり方こそが、今の時代必要とされてきていると思うのだ。


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