いつか見た光景

 先日、ビデオで昭和一九年に作られた木下恵介監督の「陸軍」という映画を見た。その有名なラストシーンにある、街中を行進してゆく兵士の隊列を何重にも取り巻き、歓声を上げ日の丸の旗を振って見送る群衆のその熱狂的な姿と、出征してゆく息子の後ろ姿をどこまでも追いかけてゆく田中絹代の迫真の演技に圧倒された。
 だが、わたしはその場面を見ながら、同じような光景を最近ずいぶん見ているような気がした。それは連日流れている北朝鮮のニュース映像である。反米集会に集まった何十万人もの民衆とずっと鳴りやまない拍手、拳を振り上げマイクで絶叫する幹部、荒唐無稽の軍事訓練を続ける兵士、生産性向上のスローガンを叫びながら工場へ行進する労働者、そして教室の中で「首領様」への忠誠を誓う教科書を読み、歌い踊る子どもたち。
 そんな姿を日本のマスコミは冷ややかに、そしておちょくるかのように繰り返し紹介する。わたしもそんな映像を見てあ然とし、苦笑し、そしてため息をつく。この光景はかつての日本の姿ではないのか。
 戦争を知らないわたしは、そんな場面を戦前の国威発揚のニュース映像で何度も見てきた。神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会。降りしきる雨の中を行進する学徒たちの悲壮な姿と、びしょ濡れになりながらスタンドで拍手を送り続ける女子生徒の高揚した表情。そして東条英機首相の絶叫調の演説。あるいは、ハチマキにモンペ姿の婦人たちによる「鬼畜米英」のわら人形目がけての竹やり訓練や空襲に備えてのバケツリレー。そして国民学校の子どもたちの、宮城に向かっての遙拝と奉安殿やご真影の前での九十度の最敬礼、直立不動の姿勢での教育勅語の暗誦に君が代斉唱。そんな日本人の姿を当時の外国の人たちは、今のわたしたちが北朝鮮を見ているのと同じような気持ちで見ていたのだろうか。
 時代こそ違うが、この両者に共通するのは全体が個人よりも優先し、個人もまた、全体に依存しているという滅私奉公の構造だ。異なっているのは頭に頂く「冠」の違いだけで、そこには自由と人権を有する個人など存在する余地はない。
 誰ひとりとして戦争責任を取ることがなかったあの戦争を反省し、「超国家主義の論理と心理」という論文を書いた政治学者の丸山真男は、「滅私奉公の戦前の教育は個々人の責任意識に根ざした愛国心を育てたのではなく、忠実だが卑屈な従僕を大量生産したにすぎなかった」と論じた。そこでは内発的な責任意識が欠如した「無責任体系」と上位者から加えられた抑圧を下位の者に向けて発散する「抑圧委譲」だけがはびこったとした。だが、それは果たして過去のことであると言いきれるのか。
 例えば今、教育現場では教育基本法を否定し、愛国心や「日の丸・君が代」の強制を通して公や国家への奉仕や忠誠を求めてゆく動きが強まっている。だが、もうそんな「いつか見た光景」は過去の映像の中だけでいい。
 
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