言葉を刻む

 先日、「時流に消えた紙の手触り。ガリ版発明の老舗倒産」という新聞記事を読んだ。
 ガリ版にはわたしもずいぶんと世話になった。初めて鉄筆とヤスリを手にしたのは学生時代で、夜明け間近の部室で、眠い目をこすりながら登校してくる学生に手渡すためのビラの原稿を必死になって切った。ロウ原紙の上には「ーに結集せよ!」とか「ー粉砕!」といったやたら大きな見出しばかりが躍っていた。
 学生運動が停滞し始めた頃、同郷の仲間と「黙示」という同人誌を発行した。中野にあった北村巌のアパートが印刷所で、日夜みんなが集まった。誰もがお金はなかったが、情熱だけは溢れるばかりに持っていた頃だ。今でも、汗とインクとタバコの臭いが立ちこめていたあの四畳半の光景や、カリカリという音を立てて原紙を切っていた佐藤泰志の痩せた後ろ姿を思い出す。佐藤の釘を折ったような角張ったクセのある文字は、まさしくガリ版の字であった。
 北海道に戻り就職した頃も、まだガリ版が主流だった。あの頃、ヤスリを入れた重そうなバックを抱えて学校に訪問販売に来ていた業者がいた。今思えば、それが老舗ホリイの販売員だった。わたしは自分専用のヤスリを購入し、早速たった二人しかいなかった組合のビラを下宿で作り、職場のみんなに配った。七〇年代までは、ガリ版が自分の気持や意志を多くの人たちに伝えるための身近で有効な手段だった。  
 今学校では、写真や画像が入った学級だよりが主流を占めつつある。パソコンを駆使して作られたそのビジュアルな紙面は、確かに見やすくてきれいだ。そこでは文字で伝えるよりも視覚で訴えようとする傾向が強く、紙面は「読む」ものから「見る」ものに変わりつつある。だがわたしには、一番伝えなければならない内容そのものが、その紙面の美しさと反比例するかのように次第に乏しくなってきているような気がしてならない。わたしが危惧するのは、パソコンの手軽さが時として視覚的なものに頼り過ぎることになり、それが結果として言葉を軽んじたり、言葉による表現へのこだわりを失わせてゆくことなのだ。
 初めて鉄筆を持ち原紙を切った時、「言葉を刻む」とはこういうことかと思った。まさしく、言葉を刻み、紡ぎ出しているという実感がした。原紙を切り終わり、その原紙を慎重に謄写版に張り付け、むらなくインキを乗せたローラーをその上に転がす。インクの臭いが染みついた、わら半紙の上の印刷されたばかりの文字を見た時、それが自分の分身のような気がした。一文字一文字、言葉を刻んでいたあの頃の気持ちを、パソコンで文字を打ち込んでいる今も決して忘れたくはない。


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