サバの缶詰

 シベリア抑留に関する本を読むと、きまって食べ物についての辛く苦い体験の場面に出くわす。配給された乏しい食料を分配する時になると、それまで仲間だった者たちが一瞬にして敵同士に変わる様子が、苦渋に満ちた語り口で書かれている。それらの記述の根底にあるのは、飢えと極寒が支配するラーゲリという極限状況下に露骨な形で現れてくる、人間のあさましい本性に対する切なくやるせない思いである。そんな身につまされるような状況に思いを馳せる時、わたしは東京にいた頃のある光景を思い出す。
 その頃のわたしたちは金も無く、いつも腹を空かしていた。度々わたしは、この欄の執筆者でもある北村巌のアパートに押し掛けては、夕飯をご馳走になった。ご馳走と言えば聞こえはいいが、こたつ机の上にあるのはいつも白いご飯と三個百円で買えたサバの味噌煮の缶詰だけだった。米を研ぎ、二合しか炊けないような電気釜のスイッチを入れた後、サバの缶詰を開け、茶碗を用意する。それが夕飯の支度のすべてだった。
スイッチが切れると、炊き上がったばかりのご飯をしゃもじできっちり二分割にする。ふたりにとって、このことが何よりも大事なことだった。それから夕食は始まるのだが、食べている間もふたりの目は、ずっと釜の中に残ったご飯にばかり行っていた。
 その一瞬、ふたりはまさしく敵同士だった。もちろん、こんなことはシベリアの状況とは比べるべくもないが、人間が対立したり、敵対したりするきっかけというのは、案外こんなところに潜んでいる。だがその頃のわたしは、そんなことに思いを巡らす余裕などなかった。
 しかし、後年、連合赤軍による同志大量リンチ殺害事件が起きた。当時、わたしもその時の一連の出来事に大きな衝撃を受けたが、殺害された中のひとりが、食べ物のことがきっかけで「総括」され、殺されたことを知り、なんともやりきれない思いがした。どんな死もその価値は同じだとは思いながらも、殺された理由が理想や思想の問題ではなく、無断で缶詰を食べたとか、化粧していたとかといった、あまりにも通俗的で些細な理由だったことに、その頃、多分に頭でっかちだったわたしはひどくショックを受けた覚えがある。
 西日が射し込む四畳半の一室で、ランニングシャツひとつになり、吹き出る汗を拭おうともせず、黙々と熱いご飯をかき込んでいた二十歳の頃。あの頃は夢を食べていたから、そんな生活にも耐えられた。だから、夢を失った時、惨めさだけが残った。しかし、幸いなことにその後、わたしたちは敵同士にはならなかった。
 だが、北村よ。あれ以来、いまだにわたしはサバ缶への抵抗感を拭いきれないままでいる。
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