台風一家

 台風の季節である。子どもの頃、わたしは台風一過のことをずっと台風一家だと思っていた。台風というのは次から次へと家族のように一緒になってやってくるから台風一家と呼ぶのだと勝手に思い込んでいたのだ。
 わたしが幼い頃、洞爺丸台風があった。あの日のことはおぼろげながら覚えている。それまで吹いていた風が昼頃に止み、日も差してきたので、わたしは母親に連れられて銀座の映画館に行った。だが、映画の途中で停電になり、強風の中、母の手にしがみつきながら家に帰った。今思えば、まさしくそのつかの間の晴れ間が洞爺丸の出航判断を誤らせた台風の眼だった。洞爺丸台風の例を見るまでもなく、かつては台風がやって来るということはたいへんなことだった。台風が来るというニュースを聞くと、みな家族総出で立ち向かった。  
 あの頃、台風の動きを知るにはラジオが頼りだった。「南大東島、九百何ミリバール、風速五〇メートル…」などと刻々と伝えられてくる天気予報で台風の接近を知ると、我が家も台風を迎え撃つ臨戦態勢に入った。強風に備えて店のショーウインドウの雨戸やシャッターを閉め、それをさらに釘で打ち付けて固定する。それから二階の自宅の窓にも板を釘で打ち付ける。その板を手で支えるのが子どものわたしの役目で、次々と釘を打ち続ける父の姿がやけに逞しく見えた。家の中では母や姉たちが停電に備えてロウソクを用意し、早めの夕食を作ったりしていた。そんな時わたしは、ふだんあまり感じることもない家族の結束のようなものをちょっぴり感じていた。
 台風が接近したその夜は、家族全員がひとつの部屋で寝た。外からは強風がガラス戸を叩く音や電線が震える音、剥がれたトタンが風で舞っている音が絶え間なく聞こえていた。両親は時々、家の中を見回ったりしていたが、わたしはスッポリ頭から布団を被り、台風が一刻も早く過ぎ去ってゆくのをひたすら祈っていた。
 台風が去った翌朝はきまって明るい日差しが差し込んでいた。空を見上げると、まさに台風一過の澄み切った青空だった。外に出ると、すでに近所の人たちが道路に散乱したトタンなどを片づけていた。わたしたちも一緒になり台風のすごさを話しながら、雨戸や打ち付けた板を取り外すのを手伝った。誰もが一難が去ったことの安堵感とひとつの「闘い」を終えたことの満足感に浸っているように見えた。
 わたしはそんなふうに家族が結束して何かをしている姿を見るのが好きだった。だから、まんざら台風も悪くないなと思ったりもした。そのせいなのか、いまだに台風一過という言葉を聞くたびにその時のことを思い出し、やっぱり台風一家なんだよなあと、ひとりつぶやくのだ。
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