戦前をひきずるもの
かつて学校には宿日直というものがあった。宿日直のことは小説にも登場し、夏目漱石の「坊ちゃん」の中の宿直室でのバッタ事件は有名だ。また、北海道綴方教育連盟事件を素材にした三浦綾子の「銃口」では、宿直の場面がこの小説のひとつの山場になっている。主人公の青年教師は、日直の教師との交替時間に間に合うよう学校へ急ぐ。奉安殿の前で最敬礼をし、宿直室に向かおうとしたその時、綴り方運動に関わった嫌疑で警察に連行され、「アカ」のレッテルを貼られて獄中に入れられてしまう。戦時中の日本は、その人が何をやったかではなく何を考えているかだけで容赦なく人を拘束し、時には仕事や命まで奪った。
そもそも宿日直というのは、明治期に全国の学校に保管されていた天皇の「ご真影」と教育勅語謄本を日夜「奉護」する目的で設けられた制度であった。実際、学校や奉安殿が火災にあった際、「ご真影」を救い出すために燃えさかる火の中に飛び込んだりして殉職した教師らの数は二十数名にも達した。そして「ご真影」に殉じた教師らが賛美される一方で、救い出せなかった教師らは世間の非難を一身に浴びることになる。まさしく、当時の教師たちは子どもの命を守ることよりも、まず先に「ご真影」を守るために自分の命を投げ出さけなればならなかった。 敗戦後、「ご真影」も教育勅語も廃止され、奉安殿も跡形もなく撤去された。だが、宿日直制度は校舎管理を理由に存続し、組合による勤務条件改善の闘いによって廃止されたのは、それから二十年以上も経ってからのことだった。だがそれでもなお、学校には依然として戦前をひきずるものが多く残った。その代表的なものが行事や儀式で、例えば卒業式などは教育勅語奉読を除けば、今でもほぼ戦前の形式を踏襲している。それでも一時、子ども主体の内容に変わりつつあったが、国旗国歌法成立後の現在は、いっそう昔の形に近づいているように思える。
そこでは、戦前の「ご真影」や教育勅語がそうであったように、君が代の歌詞の意味や日の丸の由来といったその内容は大した問題にされない。儀式のたびに繰り返される君が代斉唱と日の丸掲揚とが「国家」を体現するひとつの舞台装置になり、その中にじっと身を置き続けることだけが求められる。つまり、歌詞の意味がわからないまま歌っていようが、日の丸に敬意を払おうが払うまいかは二の次で、要はそれら一連の儀式を繰り返し体験し、頭でではなく身体で覚えてゆくことが目的にされる。そうすることで知らず知らず国家意識が身体の奥底までしみ込んでゆくからだ。
かつて教育勅語や軍人勅諭を身体の一部になるようにと徹底的に丸暗記させたように、君が代のメロディが流れると同時に直立不動になり、日の丸の前に立つと自然に頭を垂れるような人間を作り出すための装置としての儀式が、今再び甦りつつある。
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