光の雨
冬季オリンピックが開催される度に思い出すことがある。それは今から三十年前の一九七二年二月のことだ。札幌オリンピックでの笠谷選手らの活躍の余韻に日本中がまだ浸っていたその最中、いわゆる「あさま山荘事件」が起きた。その頃東京にいたわたしも、二日間にわたり延々と実況中継していたテレビにずっと釘付けになっていた一人だった。あの時の一連の出来事は、事件関係者のみならず、彼らと同世代の多くの若者たちの胸の中に、後々まで消し去ることが出来ない大きな傷跡を残した。
今回、期せずしてそのあさま山荘事件を題材にした二つの映画が製作された。「光の雨」と「あさま山荘、突入せよ」である。「光の雨」の監督で連合赤軍のメンバーと同世代でもある高橋伴明は、あの事件に最初に接した時、「恥ずかしい」と思ったと言う。それは、行くところまで行き着いてしまった彼らに対する後ろめたさであり、結果的に彼らをそこまで追い込んでしまった自分たちの無力さからくるものだった。その恥ずかしさは、あさま山荘事件直後に発覚した同志リンチ殺人事件を知るに至ってその極みに達した。
二日間の攻防の後、夕闇の中をサーチライトに照らされ、機動隊に引きずられてゆく連合赤軍のメンバーの姿を見ながら、わたしも高橋と同じような思いを抱いていた。わたしも又、一歩間違えばあそこにいたのかもしれないと思った。もしかすれば、わたしが永田洋子であり、坂口弘だったのかもしれなかった。わたしだけではない、あの頃社会の変革を目指して立ち上がっていた多くの若者たちは、あの時同じような思いを抱き、深い挫折感の中で呆然と立ち尽くしていたはずだ。
だが結局、わたしたちはあそこにはいなかった。それは決してわたしたちのほうが正しい理論や考えを持っていたからでも、彼らよりも理性とか人間性とかがあったからでもない。ただ、たまたまあの場にいなかっただけのことなのだ。そんな時代だった。
あの事件以後、若者たちは熱くなって理想や正義を語るということを止めてしまった。理想や正義を旗印にするような運動の末路を無惨な形で見せつけられたからだ。その意味でも、全共闘世代と呼ばれていたわたしたちの責任は重たく、そして大きい。
永田と坂口は死刑が確定し、明日の執行があるかもしれない日々を送っている。彼らが目指そうとしていた理想は当然のように途絶したが、あれから三十年経ったこの国の今の姿は、いったい彼らにはどう映っているのだろうか。
(「光の雨」は五月頃、函館で上 映予定)
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