夢の球場
勤めている小学校の野球少年団の存続が危うい。原因は児童数の減少だけでなく、野球をやる子ども自体の減少である。グランドを見回しても、サッカーボールを蹴っている子どもはいても、キャッチボールをしている子どもはまずいない。野球は子どもたちにとって、魅力のないスポーツになってしまったのだろうか。
わたしが小学生の頃は野球がすべてだった。遊びはもちろんのこと、聞くラジオも読むマンガも集めるカードもすべて野球がその中心だった。そして、当時のだれもがそうだったように、わたしもいっぱしの巨人ファンだった。しかし今ではすっかりアンチ巨人になり、野球中継もほとんど見ることはなくなった。日本野球のせせこましさや「球界の盟主」巨人の「勝てば何をしてもよい」という体質、そしてテレビから絶え間なく聞こえてくる球場内のけたたましい応援やアナウンサーの絶叫が嫌になったからだ。それでも、昨年はイチローに魅せられ、大リーグの試合中継は何度か見た。球場に詰めかけた多くのファンの、野球を心底から楽しんでいるその様子を見るたびいつも羨ましく思う。 ケビン・コスナー主演の「フィールド・オブ・ドリームス」は、そんなアメリカ人の野球を愛する気持ちが画面全体から溢れ出てくるような映画だった。その思いはあの「九・一一」テロをまるで予測でもしていたかのような次のセリフにも表れている。
「すべてが崩れ、再建され、また崩れる。だが野球はその中で踏み堪えた。野球のグランドとゲームはこの国の歴史の一部だ」
この映画のラストで、トウモロコシ畑の中に作った球場で主人公が死んだ父親とキャッチボールをする夢のようなシーンがある。キャッチボールを通しての親子の心の交歓の場面なのだが、それはアメリカにおける父と子の原風景のようなものなのだろう。
だが一方、主人公と同世代であるわたしには、父とキャッチボールをした思い出はない。それは日米の野球の歴史の違いもあるだろうが、それよりも戦後を生きるのに必死だったわたしの父たちの世代は子どもと一緒に遊ぶ余裕などなかったのかもしれない。その反動なのか、わたしは自分の子どもをよくキャッチボールに誘った。だが、アメリカの親子のようなふうにはいかなかった。
子どもの頃、学校から帰ってくるとすぐに外へ飛び出し、近所の倉庫の壁に付けた丸い印を目がけボールを投げ続けた。仲間が集まれば、地面に蝋石で書いた三角ベースのグランドで日が暮れるまで野球に興じていた。今思えば、そんなふうにして野球をやっていたあの頃の、二十間坂下にあった家の前のグリーンベルトや函病の施設だった旧英国領事館裏のテニスコートが、わたしにとっての夢の球場だったのではないだろうか。
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