坂道のある街
 
 函館山に向かうロープウェーを見上げながら水元の方に上って行くと、後ろで「キャー」という歓声が聞こえた。振り返ると、カトリック教会の方からやってきた二人乗りの自転車が二十間坂を真っ直ぐ下りて行くのが見えた。恐いもの知らずの自転車は、笑い声と共に一気にバス道路に向かって下りて行った。西高生らしい男女二人のあっけらかんとしたその姿を、彼らの先輩であるわたしは苦笑いしながら見送った。
 その坂道の光景はわたしに遠い昔の記憶を思い起こさせてくれた。少年時代、わたしたちは自転車ではなく、鉄のレールを取り付けた手製の雪ぞりに乗り、「去れよー!」という掛け声と共にバス通りを越え、そして電車通りまで一気に滑り下りた。坂道は子どもにとっては巨大な遊び場だった。多感な高校生の頃になると、この坂道は、将来への漠然とした不安や学校への不平不満を抱えながら、友と一緒に毎日のように上り下りした青春の坂道だった。学校からの帰り道、坂の下に広がる港や海が、鬱屈した気持ちをいつも慰めてくれた。「海を超えれば、何かがある」そんな思いを抱かせてくれたのは、坂道を下ったその先に見えていた連絡船の姿だった。
 東京から帰省した時、船内から函館山の姿が見えてくると、一目散にデッキの上に飛び出した。函館山と、そのふもとに広がる西部地区の街並みが両手を拡げて迎えてくれているような気がした。いつも、うんざりしていて、早く脱出したかったはずのこの街だったが、見慣れた建物や坂道や家並みが目の前に迫ってくると、なつかしさで胸がいっぱいになった。
 今、かつて自分が住んでいた電車通りの一角に、八階建ての市営住宅が建てられようとしている。景観上のことと、その進め方の問題などで反対の声も多い。わたしもあの場所に、視界を遮る高層建築が建つことには反対だ。しかし、もう西部地区には住んでいないわたしの反対は声高なものではなく、自分にとっての原風景が失われてゆくことに対する個人的な郷愁にしかすぎない。
 だが、法的には何も問題がないと公言している当事者たちは考えたことがあるのだろうか。この西部地区の街並みが形成されるまでの先人たちの努力や苦労を。そして、そこに住む人々やかつて住んでいた人々の気持ちや思いを。そして、函館観光の目玉である函館山からの夜景が、そのふもとに広がるなだらかな斜面に、景観に気を配りながら建てられている家々の、そのひとつひとつの灯りによって成り立っているということを。西部地区の街には、そんな先人たちのいろんな英知や思い出がぎっしりとつまっている。まさしくこの景観はこの街にとっての歴史的な財産なのだ。
 確かに西部地区の活性化は大事だ。賑やかだったころの十字街を、それこそ自分の庭のようにしながら育ったわたしは、心からそのことを望んでいる。だが、今回の、景観を犠牲とするような活性化策は、どこか方向性が違うように思う。
 この街にとって大切な財産とは何なのかという原点を、もう一度見つめたい。空間を最大限埋め尽くそうとする効率化の発想ではなく、空間を最大限活かそうとする景観の発想こそを大切にしてほしい。それが、これからの西部地区が、そして函館という街が進むべき方向性のような気がする。

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