賞の力

早朝、東山墓園付近を散歩する。墓地の間を通っている道路を進むと、四角い形をした何百という数の墓が並んでいる見通しの良い斜面に辿り着く。そこは函館山に向かって、まるでドミノを縦横に並べたような感じの場所だ。その中に函館出身の作家、佐藤泰志の墓がある。佐藤の墓の前に立ち、彼の不運さと無念さに思いを馳せる。
 佐藤は芥川賞の最終候補として五度推挙されたが、結局受賞することは出来なかった。東京や函館の団地やアパートの一室で彼は期待と不安の中で吉報を伝える電話をずっと待ち続けた。その間の彼の胸中はどのようなものであったのだろうか。
 佐藤と同じような体験をしていたのが太宰治だった。太宰は三度芥川賞候補に推挙されたが、結局彼も、受賞を果たせなかった。先日、青森の金木町にある太宰の生家である斜陽館に行った。そこに太宰が芥川賞の選考委員だった川端康成に宛てた手紙が展示されている。「老母、愚妻をいちど限り喜ばせて下さい。私に名誉を与えて下さい。・・・私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事出来ます」などと切々と書かれたこの手紙は、彼の作品「晩年」に第二回芥川賞を与えてほしいと切望する内容で、後にそれは「泣訴状」と呼ばれた。あの太宰でさえ、賞にこだわったのだ。
 佐藤もある時期、手紙を多くの知人たちに送りつけたことがある。つまるところ自分の本を買ってほしいという内容だったが、人の好き嫌いが激しく、プライドも高かった佐藤が、ほとんど付き合いのなかった知人にまで本の購入を嘆願するような手紙を送った。出版社からの要請もあり、本を売るための、賞に近づくための彼なりの精一杯の努力だったのだろう。
 佐藤も太宰と同じように、家族や知人に苦労や迷惑をかけ続けてきた。だからこそ、なおさら賞を取り、世間を見返し、家族に恩返しをしたいという気持ちが人一倍強くあったにちがいない。賞は良くも悪くも人生を変える力を持つ。受賞をバネにして一気に才能が開花してゆく者がいれば、その重圧に押しつぶされて消えてゆく者もいる。賞が持っているその魔力を、佐藤は十分知っていたはずだ。もし、佐藤が賞を取っていたら、四十一歳での早すぎる死は無かったのだろうか。
 今年から始めたホームページに全国各地から「佐藤泰志追想集」の注文が来る。ある若い人は、辻仁成より佐藤のほうがずっと函館の本当の姿を描いていると佐藤への熱い思いを語り、リストラされたばかりだという中年の人は、失業して読み始めた佐藤の小説がいたく心に沁みたという感想を寄せてくれた。
 佐藤は賞の力を得ることがないまま、その短い一生を終えた。だが、賞の有る無しとは関係なく、佐藤が書き残した小説は、今もなお読み継がれ、わたしたちにいろいろな力を与えてくれている。


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