広がる世界・縮まる世間

 アメリカ大リーグのイチローらの活躍が毎日のようにリアルタイムで流れてくる。その画面を見ながら、何万キロも離れた場所で繰り広げられている出来事を同時に共有しているということの不思議さをふと感じてしまう。
 テレビを見ながら、日本初の衛星中継の時のことを思い出す。あの時、早朝から家族と一緒にわたしは眠い目をこすりながら、アメリカからの映像が送られてくるのを今か今かと待っていた。そこに飛び込んできたのは、オープンカーに乗ったケネディ大統領が撃たれてのけ反る瞬間の映像だった。その頃、まだ少年だったわたしは、アメリカの大統領が暗殺されたという事の重大さに驚くことよりも、全世界の人々と同じ時間を共有しているというその事実に素直に感激していた。
 やがて、世界で起こった出来事は、即座に衛星を通じてテレビから流れるようになった。その後、フランスの「五月革命」に端を発し、世界各国で同時的に燃え上がっていったベトナム反戦運動や学生運動の嵐は、こうしたテレビメディアの発達なしには考えられなかった。そして現在、世界は距離的にも時間的にもいっそう近くなり、政治・経済・文化・スポーツ・ファッション、どれをとっても世界からの視点で語らざるを得ない時代になった。
 だが、こうして世界がどんどんと広がってゆくのに反比例するかのように、それまでわたしたちにとってのひとつの基準なり抑止力として存在していた世間というものが、次第に見えなくなってきているように思う。かつて私たちは世間を通じて世界を知り、あるいは世間に反抗しながら世界に飛び出そうとした。良くも悪くも世間は世界へと向かう入口であったし、大人になるための通過点であり壁であった。
 しかし今は、そんな世間との葛藤を経ることも世間体を気にすることもないまま、ケイタイやネットによって自分の部屋から世界へと直接つながってゆける世の中になった。世間というのは、生身の人間の息づかいや顔色、肉声で発せられる言葉の端々の微妙な感触や空気といったものを感じ取りながら形成されるものだ。だが、そんな肌ざわりのアナログの感覚からはほど遠い、情報という「記号」で成り立つデジタルの世界の中へ世間は吸収され、解体に向かっているようにさえ見える。
 様々なメディアの技術革新により、世界はいっそう遠近感を失いながら仮想現実的にどんどん肥大化してゆき、自分の五感の範囲に存在していた世間はますます縮小してゆく。広がる世界と縮まる世間。その両者の狭間でわたしは逡巡する。かつて世界と世間との間を確かにつないでいたものが、今のわたしにはよく見えなくなってきている。

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