たそがれの東京タワー
 

今年の正月、東京に行ってきた。観光だけで行ったのは初めてだった。東京にはいろんな思い入れや思い出が多すぎて、遊びにゆくという気持ちに今までなれなかったのだ。以前にも書いたが、高校生の頃「いつか、あの連絡船に乗って東京に行くのだ」という思いを胸に秘め、いつも学校の屋上から連絡船を眺めていた。それだけ、東京に対するあこがれや思いは強かった。だが、実際の東京は、わたしのそんな思いなど木っ端みじんにうち砕いてしまったのだが。 東京での六年間、自慢ではないがいわゆる観光スポットと呼ばれるような場所には行ったことがなかった。ただ、公園には人並み以上によく行った。明治公園、日比谷公園、清水谷公園、芝公園・・・。だが、それはデートなんかではなく、ただそこがいつもデモや集会の場所だったからにすぎない。  
そんなわけで今回、改めて東京を再発見しようと意気込んだのだ。その再発見の旅のひとつに、中学校の修学旅行以来の東京タワー行きがあった。道順を旅行ガイドで調べようとしたが載っておらず、近くまで行けばすぐ見えるだろうと簡単に考え、浜松町駅で降りてみた。だが、駅周辺は昔と大きく様変わりし、高いビル群に隠れてタワーの姿はどこにも見えない。結局、一時間余りも歩き回った後、ようやく東京タワーと再会することが出来た。  
前に来た時、展望台までのエレベーターに乗るまでに何分も並び、すし詰め状態で上った記憶があった。だが今回、乗客はわたしたちだけで、説明を聞いてもらおうとする意欲がまったく感じられない案内嬢の抑揚のない声だけがエレベーター内に響いていた。展望台に着くと、薄曇りの東京の街並みが夕日にぼんやりと照らされながら広がっていた。視線を遠くに移すと、あちらこちらにタワーよりもはるかに高いビルがそびえている。以前は、見上げられるだけの唯一の存在であった東京タワーが、今では見下ろされる存在にもなってしまったことに、この数十年の時間の流れを感じた。   展望台を下り、土産店街に立ち寄った。修学旅行の時、友だちと一緒に日めくりカレンダー付きの銀メッキの東京タワーの模型を買ったのがこの場所だった。だが、ここも客の姿は少なく、店員たちは手持ち無沙汰の表情で暇そうに立っている。なんだか辛くて、わたしは一刻も早く、その場を立ち去りたい思いに駆られた。
 陽が落ちてすっかり暗くなった街中をバスが走る。遠く窓越しに、ライトに照らされ茜色に輝いている東京タワーが見えた。観光コースから外れ、高層ビル群の中に埋もれ、デジタル衛星放送の波から取り残され、そしてゴジラからも相手にされなくなった東京タワー。わたしは無性に寂しかった。思い出というものは、昔のままにそっとしておくべきものなのだ。こうして、わたしにとっての東京が、またひとつたそがれ時を迎えてゆく。

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