「かさぶた」の記憶
わたしがまだ小さかった昭和三十年代、先の戦争はどのように語られていたのだろうか。おそらく、あの戦争は侵略戦争だったとか聖戦であったとかいう話ではなく、「あの頃はみんなたいへんだった(今は平和でいい)」という思い出話の次元ではなかっただろうか。戦争を体験した多くの者は、もうそのことには触れたくはなかったし、だからと言ってあの時代をまるごと無意味な時代として否定することも辛く、そこに何らかの意味を見い出したかったに違いない。だが、戦後のあの時、日本は「一億総懺悔」などという責任放棄ではなく、あの戦争に至った経緯を見つめ直し、その原因と責任とをしっかりと確認するところから出発すべきであった。
戦後と呼ばれていた時代、初詣の神社の境内やお祭りの露店が立ち並ぶその街角に、白装束姿の傷痍軍人の姿があった。アコーディオンやハーモニカで軍歌を奏でながら募金を募っている彼らの姿を見かけると、見てはならないものを見てしまったような罪悪感にさいなまれ、それまでの浮き浮きした気分は一瞬にして醒めていった。その時、大人たちは大人たちで、彼らの姿を見るたびにあの忌まわしい戦争の記憶を呼び起こしたに違いない。高度成長の道をひた走っていたわたしたちにとって、彼らは過去の古傷を思い出させる「かさぶた」のようなやっかいな存在に思えた。今思えば、彼らもまた、きちんとあの戦争を総括することもけじめをつけることもなく、繁栄のみを追求していたこの国の有り様に違和感を抱き続けていたのかもしれない。やがて、「戦後が終わった」と言われるようになる頃、彼らの姿も街頭から消えていった。
先の戦争体験を持つ人たちが年々少なくなってゆく今、あの戦争の記憶をどう次世代に伝えてゆくのかが大きな課題になっている。先日、これまでの歴史教科書を「自虐史観」であると批判するグループが編纂した歴史の教科書が検定に合格し、来年度からの学校での採択を目指している。彼らが主張する「国民の歴史」には、歴史上の事実を彼らが好むシナリオに沿って脚色した「国家の物語」に作り替えようとする意図が見え隠れする。だが、個々人の体験や記憶というものは国家だけに取り込まれるものではなく、ましてや歴史は物語ではありえない。
二十世紀の課題を引き継ぎ、問い直すこともなく、過去を一挙にリセット(精算)して出発したこの二一世紀。「日の丸・君が代、入学式も100%」という事実は、二十世紀内での解決という名目で進められた国旗国歌の法制化が強制化そのものであったことを示した。そんな中、わたしたちの周囲には、この国の行く末への不透明感を背景に、今日の安心と安全で小さく満足しようとする気分が漂っている。しかし、そんな時だからこそ、「かさぶた」の下に隠れていた古傷の記憶を呼び起こしたい。そして、焼け野原の中から築き上げてきた民主主義の意味を今一度考えていきたいと思う。
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