沖縄の記憶


 今回、沖縄に行った目的のひとつに沖縄戦で戦死した叔父のことがあった。若くして死んだ叔父のことはずっとどこか気になっていて、いつか戦死したその地を見たいと思っていた。丘の上から、静かな波が押し寄せてくる紺碧の海を見つめながら、遠く北の地から、はるばるこの南の果てまでやってきた叔父の心中を思い遣った。
 南部の摩文仁(まぶに)の丘の一角に、「平和の礎(いしじ)」という記念碑が建立されている。そこには、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった二十四万人もの人たちの名前が彫られている。海に向かい、波形に連なった御影石の列が何列も続き、そこに北海道出身者の碑もあった。その中に叔父の名前を見つけ、ようやく、長い間の胸のつかえがおりたような、そんな気がした。
 日本で唯一の地上戦だった沖縄戦での戦死者は、沖縄の人たちを除けば、北海道出身の者の数が一番多い。ここにも、中央から遠く離れた者たちがいつも最前線に立つという構図が見える。それは、別な言い方をすれば、中央を守るために、地方が捨て石にされるということだ。沖縄戦はその象徴的な闘いだった。天皇制護持のための駆け引きの時間稼ぎとして沖縄戦はあった。戦後に人間宣言した、たったひとりの現人神を救うために、何万人もの命が失われた。
 帰り道、ひめゆり資料館に立ち寄った。そこは多くの観光客で賑わっていた。展示は、ひめゆり学徒隊が島の南部へと米軍に追われながら転々と移動してゆく様子が時間軸に従って構成されている。
 時間の経過とともに、日に日に少女たちの写真の数が増えてゆく。それは、その場所で死んだ百二十三人の少女たちの写真だ。その中に、姓名のみが記され、顔写真のないものがあった。それを見た時、たった一枚の写真すら残すこともなく、暗い洞窟の中で、血まみれになって死んでいった少女の、たった十六年の青春を思い、心が震えた。
 最後に、彼女らが学校生活を送っていた時のスナップ写真が飾られていた。そこに写っている彼女らの表情はみな明るく、天真爛漫に笑っている。それまでずっと胸の中で耐えてきたものが一気にこみ上げてきた。
 外へ出ると、観光客相手の出店に人が溢れていた。どんなに強烈な悲しみも苦しみも憎しみも、いずれ時間と共に風化し、過去へと追いやられる。そして、悲惨な体験も又、経済の中に取り込まれ、商品として店頭に並べられてゆく。それが時間というものが持つ残酷な一面でもある。
 沖縄は今、二十一世紀に向け、新時代の沖縄の姿を盛んにアピールしようとしている。それはそれでいい。だが沖縄には、いつまでも二十世紀の辛い記憶を未来へと伝え続けるような、そんな存在でもあってほしいと思うのだ。
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