佐藤泰志年譜 (敬称は略します)
一九四九年
四月二十六日、函館市高砂町(現若松町)に佐藤省三・幸子の長男として生まれる。
一九五六年 七歳
函館市立松風小学校に入学。四年生頃から大人びた言動が目立ち始める。
一九六二年 十三歳
函館市立旭中学校入学。 読書クラブに所属し、三年生の時、部長になる。「『赤
蛙』を読んで」が第十回北海道青少年読書感想文コンクールに入選、受賞式出席のため札幌へ行く。
一九六五年 十六歳
函館西高等学校に入学。文芸部に入る。 学習雑誌の投稿欄に随筆・詩などを投稿する。
一九六六年 十七歳
小説「青春の記憶」で第4回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。この頃、文芸読書サークル「青い実の会」結成を学友に呼びかける。
一九六七年 十八歳
函館西高等学校で防衛大学校入学説明会阻止闘争が起こる。このことを素材にした小説「市街戦の中のジャズメン」で第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。しかし、この作品は、高校生の書いたものとしては内容的に問題があるとされ、北海道新聞への掲載を拒否される。
一九六八年 十九歳
三月、函館西高等学校卒業。函館で浪人生活を始める。 二十枚の作品だった「市街戦の中のジャズメン」を三十枚に書きなおし、「市街戦のジャズメン」と改題して『北方文芸』に発表。
卒業前から北海道大学水産学部、北海道教育大学函館分校の政治的学生グループと接触。
そのあたりから数年、大江健三郎・カミュ・ニザンなどを熱中して読む。 小説「市街戦のジャズメン」(『北方文芸』第1巻第3号)
詩「ニューレフト」(『函館西高新聞』、三月)
一九六九年 二十歳
浪人生活二年目。井田幸子・磯野新一・藤川巌・平智則ら年下の高校生と出逢う。
一九七〇年 二十一歳
上京。中野区上高田に住む。 四月、國學院大学文学部哲学科に入学。 高校時代の学友らと同人誌『黙示』を創刊。第六号まで詩や随筆数編を発表。
一九七一年 二十二歳
四月、大学の同級生漆畑喜美子と中野区上薬師で暮らしはじめる。 七月、『黙示』を脱会し、藤川巌、茜堵志哉、岩崎理らと同人誌『立待』を創刊。
小説「贋の父親」(『立待』創刊号、七月) 小説「追悼」(『立待』2号、八月)
小説「留学生」(『立待』3号、十二月)
一九七二年 二十三歳
国分寺市戸倉に転居。喜美子は大学を中退。国分寺のジャズ喫茶に勤める。 小説「防空壕にて」(『立待』4号、七月) 小説「奢りの夏」(『北方文芸』第5巻10号)
一九七三年 二十四歳
国分寺市東元町に転居。さらに国分寺市本多に。短期間のうちに市内を転々とする。
小説「孔雀」(『立待』5号、一月) 小説「兎」(『立待』7号、七月) 小説「犬」(『立待』9号、八月)
小説「遠き避暑地」(『北方文芸』第6巻12号)
一九七四年 二十五歳
三月、国学院大学を卒業。卒業論文は「神なきあとの倫理の問題」。 四月、喜美子就職。国分寺市戸倉に戻る。
市役所を十五カ所受けるが全部落ちる。大学推薦の予備校事務員の職も自分で蹴る。
服装メーカーの製品値札付けのアルバイトを皮切りに、その後職を転々とする。
十月、同人誌『贋エスキモー』を藤川巌、酒井俊郎とガリ版刷りで創刊。 小説「颱風」が第39回文学界新人賞候補となる。
小説「少年譜」(『立待』9号、四月) 小説「朝の微笑」(『北方文芸』第7巻11号)
小説「休暇」(『贋エスキモー』創刊号、十月)
一九七五年 二十六歳
あかつき印刷に勤める。
一九七六年 二十七歳
十月、八王子市長房の都営団地に転居。喜美子、転職。 小説「深い夜から」(『北方文芸』第9巻8号)が第1回北方文芸賞佳作となる。授賞式のため札幌に行く。
一九七七年 二十八歳
精神の不調に悩み、三月、上目黒診療所で自律神経失調症の診断を受け、通院をはじめる。以後、没するまでずっと精神安定剤を服用。療法としてのエアロビクス体操とランニングをはじめる。一日、十キロ以上走る。
九月、国立市の一橋大学生協に調理員として勤める。一橋の学生寮に出入りし、三里塚の援農にかかわる。
小説「移動動物園」(『新潮』六月号)が第9回新潮新人賞候補作となる。
一九七八年 二十九歳
五月、長女・朝海(あさみ)誕生。 十月、『贋エスキモー』をタイプ印刷であらためて1号から発行。 小説「光の樹」(『贋エスキモー』1号、十月) 小詩集「愛あらば一枚の皮膚」(『贋エスキモー』1号、十月)
一九七九年 三十歳
梱包会社に正式に就職。 十二月九日、睡眠薬による自殺未遂。入院。 小説「もうひとつの朝」(『北方文芸』第12巻3号)
小説「颱風伝説」(『北方文芸』第12巻6号) 小説「草の響き」(『文藝』七月号)
小説「ディトリッヒの夜」(『幽幻』2号、八月) 小説「画家ティハニー」(『贋エスキモー』2号、十月)
随筆「私信・今もまだ贋エスキモーである藤川巌に」(『贋エスキモー』2号、十月)
一九八〇年 三十一歳
一月十三日、長男・綱男誕生。一月二十三日退院。 小説「もうひとつの朝」(『北方文芸』第12巻3号)で第16回作家賞を受賞。二月、その受賞式のために名古屋へ。「もうひとつの朝」は文芸誌『作家』3号に転載された。
小説「七月溺愛」(『北方文芸』第13巻3号)
一九八一年 三十二歳
三月、郷里の函館市に転居。 職業安定所に通いながら、就職先を探す。 五月、職業訓練校の建築科に入り、大工になるための訓練を受ける。 小説「撃つ夏」(『北方文芸』第14巻第2号) 童話「チエホフの夏」(『贋エスキモー』3号、八月) 小説「きみの鳥はうたえる」(『文藝』九月号)が第86回芥川賞候補作となる。
一九八二年 三十三歳
三月、東京に戻る。国分寺市日吉町四丁目に住む。 『きみの鳥はうたえる』(三月、河出書房新社刊、表題作のほかに「草の響き」を所収)
随筆「函館の朝市」(朝日新聞社北海道支社発行〈旅のメモ〉四月号) 小説「光る道」(『文藝』十月号)
小説「空の青み」(『新潮』十月号)が第88回芥川賞候補作となる。
一九八三年 三十四歳
『きみの鳥はうたえる』の表紙を担当した画家・高専寺赫と親しくなる。 このころから文芸誌の新人賞の下読みと新聞の書評の仕事が入るようになる。 小説「鳩」(『性教育研究』二月号) 小説「水晶の腕」(『新潮』六月号)が第89回芥川賞候補作となる。 小説「黄金の服」(『文學界』九月号)が第90回芥川賞候補作となる。
一九八四年 三十五歳
五月から『日刊アルバイトニュース』の連載エッセイ「迷いは禁物」がはじまる。週に一本、一九八五年七月まで全部で五十六回書く。
五月、国分寺市日吉町三丁目に転居し、以後、没するまでここに住む。次女・佳乃子誕生。
小説「防空壕のある庭」(『新潮』三月号) 随筆「夢みる力」(『北海道新聞』2月22日付)
随筆「八百五十キログラムの詩集」(『オーバー・フェンス』6号、三月) 小説「美しい夏」(『文藝』六月号)
小詩集「僕は書きはじめるんだ」(『オーバー・フェンス』7号、九月)
一九八五年 三十六歳
小説「鬼ガ島」(『文藝』三月号) 小説「オーバー・フェンス」(『文學界』五月号)が第93回芥川賞候補作となる。
随筆「書斎」(『北海道新聞』7月30日付) 小説「野栗鼠」(『文藝』九月号)
小説「風が洗う」(『文學界』十一月号) 小説「そこのみにて光輝く」(『文藝』十一月号)
詩「そこのみにて光輝く」(『オーバー・フェンス』9号、十一月)
一九八六年 三十七歳
「もうひとつの朝」の再発表をめぐって波紋。事実上、文芸ジャーナリズムからほされる。 アルコール中毒ひどくなる。 小説「もうひとつの朝」(『文學界』六月号)
一九八七年 三十八歳
随筆「十年目の故郷」(『北海道新聞』1月20日付) 随筆「『北方文芸』と私」(『北海道新聞』4月25日付)
小説「大きなハードルと小さなハードル」(『文藝』十二月号)
一九八八年 三十九歳
四月よりテレビドラマの時評を月一回書く。(共同通信系で全国より地方紙に「放送時評」あるいは「テレビ時評」として、一九八九年三月まで連載される)。 加藤健次編集の雑誌『防虫ダンス』に連載していた「海炭市叙景」の連作を途中で打切り、文芸誌『昴(すばる)』で、十一月号より新たに最初から断続的に掲載を始める(一九九〇年の四月号まで六回にわたり発表する。なお、この連作は当初の構想では、全体を四章(三十六編)とし、第一章「物語のはじまった崖」と第二章「物語は何も語らず」の十八編が『昴』誌上に発表された。しかし、1990年の自裁により第3章以降は中断となる)。 小説「海炭市叙景/1まだ若い廃墟 2青い空の下」(『防虫ダンス』4号、一月) 随筆「青函連絡船のこと」(『中國新聞』ほか、3月10日付) 小説「海炭市叙景/3冬を裸足で」(『防虫ダンス』5号、5月) 随筆「もうひとつの屋上」(『昴』七月号) 小説「海炭市叙景」(『昴』十一月号) 小説「納屋のように広い心」(『文藝』季刊冬季号)
一九八九年 四十歳 一月十九日、北海道浦河町に住む妹・由美が急死する。 小説「闇と渇き(海炭市叙景2)」(『昴』三月号) 『そこのみにて光輝く』(三月、河出書房新社刊、既発表の「そこのみにて光輝く」を第一部として、書き下ろしの第二部「滴る陽のしずくにも」を合わせたもの)が第2回三島由起夫賞候補作となる。 小説「裸者の夏」(『群像』五月号) 小説「新しい試練(海炭市叙景3)」(『昴』五月号) 随筆「浦河の映画館」(『北海道新聞』6月2日付) 小説「春(海炭市叙景4)」(『昴』九月号) 『黄金の服』(九月、河出書房新社刊、表題作の他に既発表の「撃つ夏」「オーバー・フェンス」を所収) 随筆「背中ばかりなのです」(『新刊ニュース』十一月号) 小説「夜、鳥たちが啼く」(『文藝』季刊冬季号)
一九九〇年 四十一歳
十月九日夜、ロープをもって家を出る。十日朝、自宅近くの植木畑で死体となって発見された。十一日、通夜。十二日、告別式。
小説「青い田舎(海炭市叙景5)」(『昴』一月号) 随筆「武蔵野雑感」(『北海道新聞』1月23日付)
随筆「アメリカの叫び」(映画『ブルックリン最終出口』パンフ、三月) 小説「楽園(海炭市叙景6)」(『昴』四月号)
随筆「川の力」(『毎日新聞』5月29日付) 随筆「失われた水を求めて」(『東京人』七月号)
随筆「卒業式の思い出」(国学院大学広報誌『滴』、十月) 小説「星と蜜」(『文藝』文藝賞特別号)
小説「虹」(『文學界』十二月号)
一九九一年
『移動動物園』(二月、新潮社刊、表題作のほかに既発表の「空の青み」「水晶の腕」を所収) 『大きなハードルと小さなハードル』(三月、河出書房新社刊、表題作のほかに既発表の「美しい夏」「野栗鼠」「納屋のように広い心」「裸者の夏」「鬼ガ島」「夜、鳥たちが啼く」を所収) 『海炭市叙景』(十二月、集英社刊) 三月、福間健二発行による文芸同人誌『ジライヤ』第6号が佐藤泰志追悼特集を組む。
一九九二年
四月、佐藤喜美子より函館市文学館へ遺品が寄贈される。 七月、辻仁成・荒木元発行の文芸同人誌「ガギュー」(創刊号)が佐藤泰志特集を組む。
十月、「佐藤泰志をしのぶ会」(三回忌)が国分寺市内で営まれる。発起人は木村和史・佐藤喜美子・福間健二・藤川巌。
一九九三年
三月、函館市文学館が開館し、佐藤泰志の展示コーナーが設置される。中高時代の学友などによる「函館文学館の佐藤泰志コーナーに絵を飾る会」から、高専寺赫作品「叙景」(『海炭市叙景』の表紙絵)が函館市文学館へ寄贈される。
四月、「絵を飾る会の夕べ」が開催される。 六月、文芸同人誌『ガギュー』第2号が再度、佐藤泰志を特集する。
一九九六年
八月、藤田節子(元函館文学学校事務局長)から函館市文学館へ、佐藤泰志からの書簡などが寄贈される。
一九九七年
五月、坂本幸四郎(文筆家)から函館市文学館へ、佐藤泰志からの書簡などが寄贈される。
一九九九年
九月、函館市文学館で「佐藤泰志ー途絶した青春」展が開催される(9/17〜10/20)。同文学館主催により、日本近代文学会会員北村巌による講演会「佐藤泰志、その眼底に焼き付けしもの」が開催される。中高時代の学友らの手により、佐藤泰志追想集「きみの鳥はうたえる」(佐藤泰志追想集を発行する会発行)が刊行される。
付記 この年譜は福間健二氏作成の年譜(『ジライヤ』6号掲載)をもとに加筆し、作成しました。不明な点等がまだあると思います。今後、さらに不十分な点を補ってゆく所存です。
(作成 西堀 滋樹・田沢 義公)