9,東浜桟橋(旧桟橋)

希望と絶望とを送迎した桟橋・・・啄木・節子

 正式名称は東浜桟橋だが、1910(明治43)年、国鉄駅の桟橋(現在の函館駅)が出来てからは旧桟橋と通称呼ばれた。明治初年からあったもので、もとは木造だった。今はコンクリート製で「昭和34年7月竣工」とある。
 
 明治維新後、青函航路は開拓史や日本郵船などで継続され、ほとんどこの桟橋が利用された。1908(明治41)年、国鉄連絡船が就航し、沖に停泊の連絡船との間をはしけや小蒸気船が往来した。
 駅に本桟橋が出来た後は、利用度も半減したが、いろいろな船に利用され、北洋漁業全盛の頃の送り込み、切り揚げ(出港・帰港)の時の賑わいは大変なものだった。付近には飲食店や旅館も多くあった。ここにあった鉄道省出札所は大正10年8月に廃止された。そばに「北海道第一歩の地」の碑(昭和43年建立)があるが、まさに本州から蝦夷、北海道に渡ってきた人たちが上陸第一歩をしるした記念の場所だった。

 明治40年、詩集「あこがれ」を刊行して、すでに青年詩人として文名高い啄木を迎えようと、苜蓿社の連中はこの旧桟橋で待った。しかし、いつまでたっても啄木は現れない。結局現れないので引き返すと、手紙が来ていて、啄木は駅前の広島屋旅館にいるとのこと。啄木は鉄道桟橋(新桟橋)の方に到着していたのだ。その後、啄木夫人の節子が初めて函館に第一歩を印したのはこの旧桟橋。

小林多喜二「蟹工船」
「『おい、地獄さ行ぐんだで!』・・・・略・・・・二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた」で始まる小林多喜二「蟹工船」も、この旧桟橋から乗船する風景を描いている。

亀井勝一郎「函館八景」
「私はこの桟橋の夕暮をこの上なく愛した。落日の光が碇泊する船体を鮮やかに染め、また桟橋の上に群がる異邦の人々の顔は一層赤う照り輝いた」

元町文学地図