8,新島襄渡航の地
新時代への渡航ー同志社大学建学へ
1864年(元治元年)、当時、新島七五三(しめた)と言った、後の新島襄は、二十二歳で函館市大町の相馬倉庫付近の岸壁から夜陰にまぎれ小舟に乗って、沖のアメリカ船に到着。船長の厚志で船中にかくまわれた。
それを記念してこの碑が昭和29年に建った。ただし、その二年前に、倉庫の外壁に記念の銘板を掲げており、それも台石にはめたので、その年号がある。「新島襄海外渡航乗船の処」と刻み、「男児志を決して千里を施す、自ら辛苦を嘗めてあに家を思わんや、かえって笑う春風雨を吹くの夜、枕頭尚夢む故園の花」の自作漢詩を刻む。
米国で学んで1874(明治7)年帰国。同志社を興したが、ここからの脱出には、福士成豊など多くの人の世話になった。
新島襄脱出記念碑
船山 馨 「蘆火野(あしびの」) (角川文庫)より
「・・・建物の裏側は石畳が波打際へ緩い傾斜をもって敷きつめられていて、そこがポーター商会専用の舟着場であった。・・・(略)・・・彼は新島を茣蓙を敷いたみよしの舟底へ寝かせ、おゆきに手伝わせて帆布を覆うと、その上に新島の背負ってきた荷物や魚籠をのせた。そのあいだも、おゆきと短い言葉を交わすだけで、新島とはひと言も口をきかなかった。それがすむと、わざとともに提灯をともした。・・・(略)・・・おゆきは櫓をあやつって舟着場を出てゆきながら、闇の前方に瞳を凝らしていた。ベルリン号の船体は夜の闇に隠れているが、遙か彼方にまたたいている舷灯がその所在を示している。」
※この小説の最後に出てくる「雪河亭」は五島軒のモデル。五島軒には船山馨の展示コーナーがある。
「準之助とおゆきの青春を秘めた函館基坂下の雪河亭は・・・(略)・・・・人眼に立たない仕舞屋のようなつつ ましい店構えではあるが、味は飛びきり値段は手頃、という準之助の夢は、店の名とともにいまも生きている」
(「蘆火野」)
元町文学地図