4、遺愛幼稚園

亀井勝一郎、久生十蘭、今東光、今日出海・・・



遺愛幼稚園から弥生小学校に進学するのが当時の「エリートコース」であった。
  今東光・今日出海・亀井勝一郎、久生十蘭などがこのコースを辿った。
 遺愛女学高(杉並町)と同系のアメリカ・メソジスト(新教)派の経営。ここはかつて遺愛女学校があり(明治15年から40年)その付属幼稚園として明治28年設置。40年の大火で焼け、中絶していたのを大正2年に再建したものである。旧幼稚園時代は、かの今東光(作家)も入園していて「女の先生に初恋をして、毎日大張り切りだった」と講演で聴衆を笑わせていた。


 今東光は父が日本郵船の外国航路の船長で、各港を転々としたため5歳で来函、弥生小学校二年で小樽へ移った。
  (ちなみに同じように郵船会社社員の子息としては、小樽の石原慎太郎・裕次郎兄弟がいる)
 弟の今日出海は、明治36年に函館で生まれた。

今 東光  明治三一・三・二六―昭和五二・九・一九(1898―1977) 
 小説家。横浜市伊勢佐木町に生れる。今日出海(ひでみ)の兄。父武平は最後に日本郵船の欧州航路の船長となったが、勤めの関係で、函館、小樽、横浜、大阪、神戸と転々し、そのため小学校を六度も変る。ボヘミアンな性格はこれによって形成されたらしい。中学も関西学院中学部、兵庫の豊岡(とよおか)中学をいずれも一年で中退し、家人を困らせた。父が船長をやめて東京に居を構えたので、上京、放埒(ほうらつ)な文学青年の生活にはいる。たまたま東大生時代の川端康成(やすなり)を知り、川端たち一高出身者と、大正一〇年に第六次「新思潮」を創刊。一二年創刊の「文芸春秋」にも同人として参加、菊池寛を知る。また、谷崎潤一郎も知る。 ところが、我意の強い菊池寛に対する反感から、その門下の多い「文芸時代」を脱退し、一四年、「文党」を創刊、時代の波に乗って一時左傾する。が、昭和五年、心境に変化を生じて得度、天台宗延暦寺(えんりやくじ)派の僧侶(そうりよ)となり、九年まで比叡(ひえい)山で修業。二〇年余り文学よりはなれていたが、二六年、大阪府八尾市の荒れ寺天台院の特命住職を命ぜられるに及んで、裏千家家元の機関誌「淡交」に『お吟さま』(昭三一)を連載。これが三一年に直木賞を受賞し、流行作家となる。

元町文学地図