10,秦家
山(信州)と海(函館)との出会い
小説「破戒」出版資金調達のため島崎藤村来函
現在の秦商事。当時漁網問屋だった秦家(末広町21番地)は、山側の大三坂の途中にあった。
島崎藤村が「破戒」自費出版の資金調達のために、妻(冬子)の実父である函館の秦慶治を訪ねたのは、日露戦争が始まった1904(明治37)年の7月のことであった。藤村は26日青森で、詩人鳴海要吉や秋田雨雀に会い、翌27日にロシア戦艦が出没して騒然たる津軽海峡を渡り、函館の旧桟橋に到着した。藤村はこの函館行きのことを「津軽海峡」「突貫」という小説にしている。
藤村はこの妻冬子の実家に一週間滞在し、義父から「破戒」出版資金400円を調達した。
島崎冬子(1878−1910)
1896(明治29)年東京の明治女学校卒業。同学校の教師であった藤村と1899(明治32)年結婚する。父の秦慶治から借りた400円で「破戒」を自費出版したものの、1906(明治39)年に娘3人を相次いで亡くし、藤村・冬子夫妻は大ショックを受ける。その後冬子は3人の男の子と一人の女の子を産むが、末娘柳子を産んだ産後の肥立ちが悪く死亡する。→森本貞子「冬の家」
寿楽園 (上磯町当別)
秦慶治は上磯町出身。当時、上磯町当別にあった秦家の別荘のある庭園が寿楽園である。
冬子の姉浅子の夫である秦貞三郎(紙問屋)が造営。1921(大正10)年に貞三郎の還暦を祝う碑が建ち、島崎藤村が「寿翁遺跡碑文」の一文を起草している。
元町文学地図